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前回(第11回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2018年8月号に掲載されたエッセイの最終回です。



最終回

絶望的状況もなんとかなるようでして

 2018年4月、貯蓄が尽きたストレスか、少し元気になった妻の姿に安心したのか僕は痔瘻で入院してしまった。妻はがん治療中でまとも働けず、それを支えるべき夫は痔で入院してこれまた働けない。入院したときの預金額は3000円。入院費どころか生活費さえ払えない絶望的な家計状況だった。しかし、あまりの痛みに耐えられず診察を受けたら即手術、即入院となったのでお金のやりくりを考えるのは後回しにせざるを得なかった。


 手術翌日、ぼーっとした頭でベッドに横たわりながら、

「入院費、どうしよう…」と考えていたら見舞いに来た妻が、

「保険会社の人に連絡しといたから。必要な書類を持って来てもらうから病院の人に渡しておいてね。保険で入院費くらいはなんとかなるし、それどころか生活費の足しになるよ」と、いつになくテキパキ処理してくれて、完全に立場が逆転したことを自覚した。妻の姿は去年、がん治療のために彼女が入院していた頃、僕がやっていた姿そのままだった。また、いつもは家族と一緒に外出したがらない長男も見舞いには毎日のように来てくれて家でも様子が変わっていたようだ。兄弟のまとめ役は姉に任せて自分はいつも補佐に回っているような長男だったけれど、初めての父親の不在に長男としての自覚が芽生えたのかもしれなかった。


 僕は頭の片隅で自分がしっかりしていなければ家族の生活は立ち行かないと考えていたのかもしれない。しかし、実際は違う。夫であり父である僕がいなくても、その分を妻や子供たちがしっかりとカバーしようと動くものなのだ。そもそも妻ががんになるまで、僕らの生活は妻の給料にかなり依存していた、否、彼女こそが一家の大黒柱だったではないか。痔なんかでは死なないけれど、これならばいつ死んでも大丈夫だなと考えたのが悪かったのか、退院日の帰宅途中に僕は原因不明の高熱を出して再入院。結局2週間近くも入院することになってしまった。妻は驚きつつも笑いながら言った。


「入院日数が多いほど医療保険は下りるから、長く居れてよかったね。我が家って本当、困った時になんとかなるようになってるよね」


 実際、僕の医療保険のおかげで絶望的な家計は好転し、7月頃までの生活費の目処がつくことになった。僕は文字通り身体を張って稼いだわけだが、その代償は小さくなかったようで2週間ほどの寝たきり生活のせいですっかり虚弱になってしまった。7月以降の生活を安定させるためにも転職あるいはセカンドワーク探しを始めなければならなかったが、5月が終わるまで体力は回復しないばかりかウィルス性胃腸炎に感染してしまって今度は妻ではなく僕が寝込んだり点滴してばかりの日々が続くことになった。

「五分五分」と言われて1年

 6月、妻が乳がんの検査で「悪性かどうかは五分五分」と言われてから1年が経った。そして、5月いっぱいで妻はパートを辞めた。今は「今日は急にめまいがしちゃって参った」とか「頭痛がなかなか取れなくて…。薬飲むと眠くなるし…」とか言いながら正社員として毎日働いている。


「子供たちが勉強がんばってるし後悔させたくないから塾に通わせてあげたい。スマホも新しくしたいし、いつか家族でディズニーランドに行きたいし!」と正社員として働き始めた不純な動機を明るく話すが、実際のところは夫である僕の不甲斐なさが原因で、つまりは生活費と彼女の治療継続のためである。彼女の体調を考えると正社員として働くのはまだ早いように思うし、いつまで続けられるかもわからない。でも、「働いてくれ」と僕にお願いさせずに自分で仕事を探して働き始め、子供たちの成長を楽しみに前向きに過ごしている姿を見て、僕は自分の不甲斐なさを差し措いてとても嬉しく思ってしまうのだ。今はとにかく、妻が働き続けられるように僕は全力でサポートしようと考えていて、掃除・洗濯・炊事などの家事は夫である僕と子供たちの仕事ということにしている。


妻が乳がんになるまでは、仕事で疲れて帰ってきた妻に「たまには家事もやってよ。僕も仕事が忙しい時期があるんだから」と喧嘩になることもあったが、今はそれがまるでない。妻も家事をしている僕に気づくと手伝いにくるが、僕はなるべく断ることもなく気が済むようにやってもらいお互いに「ありがとう」とよく言うようになった。


 妻の乳がんがわかったとき、僕は以前「がんという病気は悪い病気じゃない。だって、人生を終える準備ができるから。突然死に比べたら良い病気なんじゃないか」とわかったようなことを言っていた自分が恥ずかしく怒りすらおぼえたが、今はちょっとだけ“がんによって得たもの”を感じている。それは、“『当たり前のこと』なんて無い”というそれこそごく当たり前のことだ。


“普通”、“当然”という物事は実に儚い。そして、それらはとても貴重なものであることを僕ら家族は身に沁みて体感できた。


妻にしてみれば、そんなごく単純なことを乳がんになって苦しんでまで知る必要はなかったと言うかもしれない。しかし、この体験は将来のある子供たちにとって大きな財産になるはずだ。僕はそう信じたい。そういう意味で僕らにとって「がんは悪い病気ではなかった」と今なら言えるんじゃないか。がんを患う当事者の妻がどう思っているかはわからない。でも、夫である僕は彼女の生きている姿を子供たちに伝えたいし、無駄にしたくないと思っているから、どうしても妻の闘病に意味とか意義を考えてしまう。


 妻の乳がんはごく初期に取り除かれ、そのタイプも悪いものではなかった。10年生存率は90%以上の病気だから将来は明るいかもしれないし、運悪く残りの10%になってしまうかもしれない。闘病している間に新たな治療法が確立されて寛解できるかもしれないし、他の病気や事故で死んでしまうかもしれない。あるいは100歳を超えていても元気で乳がんのことを「そんなこともあったねぇ」と笑い話にできる日が来るかもしれない。結局のところ、どこまでいっても“五分五分”だ。


 できることなら遠い未来に笑い話として振り返りたいと願いつつ、まずは今日の“当たり前のこと”に喜びを感じながら僕は妻と、そして僕らの子供たちと暮らしていこうと思っている。生活が不安定なのにずいぶん刹那的で呑気なようだけど、それが間違っているかどうかは子供たちが大人になってから彼らの生き方で答えを出してくれるだろうと思っている。


 妻が乳がんと告知されて、なぜか僕の頭に浮かんだ言葉がある。


『愛してその人を得ることは最上である。

  愛してその人を失うことは、その次によい』


 イギリスの小説家サッカレーの言葉で、これを最初に聞いた時、

「なんのこっちゃ? 失恋の負け惜しみか?」と不思議に思ったから頭に残っていたのかもしれない。でも、今はその言葉をしっかり味わえるようなパートナーでありたいと思っている。そのためにも妻より長生きし、今日一日と妻を大切にして『最上』も『その次によい』ことも両方味わえる人生を全うしたい。そう今は思っている。 


(了)


(『北方ジャーナル2018年8月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2018年

前回(第10回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2018年7月号に掲載されたエッセイの11回目です。



第11回


最悪の1年を最高のかたちで


 2017年12月、長女の「めい」がガンダムのプラモデルの世界大会で優勝した。小学2年生の頃から挑戦し続け、7回目の大会でようやく手に入れた金色のトロフィー。昨年、初めて日本代表の座を逃していたので、その挫折を糧に悲願を達成したと報道もされたし、模型の仲間たちもそう思っていただろうけど、僕ら親子にとってこの「世界一」はそれ以上の重みがあった。


 めいが今回の作品を制作していたのは、妻の乳がんが発見され、手術のために入院していた時期。僕も含め、家族みんなが動揺していたし、長女であるめいにも生活の中で頼る部分が大きくなっていた。とてもじゃないがプラモデルどころではない、と制作を諦めるよう勧めたが頑として首を縦に振らず、弟たちの面倒をよくみながらも空いた時間を見つけては何かに取り憑かれたように制作に打ち込んでいた。お母さんの病気のせいで挑戦が途切れてはいけないーー。そして、必ず結果を出してみせるーー。そんな断固たる決意が感じられる制作だった。


 僕らの2017年はつらいことが多すぎた。7月に妻の乳がんが見つかり、8月には僕の父が家を飛び出して両親が離婚、9月には僕が慕っていた祖父が亡くなった。僕の母にとっては父と夫を失った1年であり、娘のめいにとっては曾祖父と祖父を失い母までも失う恐怖に怯えた1年だった。


 表彰式でめいは涙をこらえることができなくなっていた。僕には世界一になった喜びだけで泣いているようには見えなかった。今までの僕は娘が日本一になろうが世界2位になろうが、「いやいやお恥ずかしい限りで…」というような顔をしてばかりだったが、このときばかりは人目も憚らず泣いた。


「1年を最高のかたちで締めくくったね。ありがとうな」


 その日の夜、宿泊先のホテルで僕は礼を言った。めいは、


「うん、よかった。本当によかった」


 最悪な1年のまま終わらなくてよかったーー、とわざわざ言うことは僕らに必要なかった。人生山あり谷あり。谷の底には辿り着いたようだ。あとはしばらく上り坂だろう。来年はそんなふうに過ごせそうだ。なんの根拠もないけれど、僕にはそう思えた。


起き上がり始めた妻


 年が明けて1月はめいへの取材対応やお祝い、お礼をして回る日々で忙しく過ぎ、それがひと段落した2月、妻はケーキやパンを焼くようになっていた。妻の唯一といっていい趣味で、それを再開したことが嬉しいのか子供たちが妻がどんなに「失敗作」と言っても「おいしい!」と言って喜んで食べていた。日によって朝から晩まで寝込んでいるときもあったが、なにかをやりたくなって動き出したことに大きな前進を感じ、僕も微笑ましく眺めていた。失敗作には手は出さなかったけれども。


 3月、パンやケーキの材料費もかかるし新しい道具も欲しいからと妻がパートを始めた。最初は1日4時間で週2回。本当にお小遣い程度しか稼げない労働時間だ。でも、僕にはこのわずかな労働でも妻には重いように思えて不安だった。実際、パートの翌日の妻は寝込んでばかりだった。以前、放射線治療の際にソーシャルワーカーと話していて、治療中のがん患者でも働ける職場が増えていることを教えてもらった妻は、


「がん患者のみんなが今までと変わらず働きたいと考えてるわけじゃないよね。わたしは死にそうな人間まで働かせるの? って思っちゃうよ(笑)」とがんを抱えて働くことに対してかなり後ろ向きだった。


 しかし、働き始めた職場の話を聞くとつらいことばかりでもないらしい。わずか4時間の労働時間でも本人にとってはかなりしんどいし、あまりの体力や能力の無さにイラつきもする。しかし、寝てばかりではなく働けることそれ自体にやり甲斐や達成感があるようだった。


 そして、この頃の僕らは妙にツイていた。スーパーに米を買いに行くとちょっと古くなっていたのか半額シールが貼ってあったり、いつ送っていたのかも忘れていた懸賞が当選しててお菓子の『おっとっと』が35m分も届いたり、普段釣れない僕が釣りの大会で大物を釣って優勝しちゃったりーー。実にたいしたことのないツキのようだが、嫌なことばかりが続いていた僕らにとってはこんな些細な幸運も嬉しく、風向きが変わったことを実感せずにはいられなかった。


妻に代わって今度は夫が…


 妻は前向きになり良い出来事は続いていたが喜んでばかりもいられなかった。妻が手術した頃に得た医療保険のお金は底をつき、妻がもう少しパートの回数を増やすか僕が職を変えたりセカンドワークを探さなければ生活が立ち行かなくなっていた。そんな状況に家計を預かる身としてストレスを抱えてしまったのかもしれないし、風向きが変わったことや少し元気になった妻の姿に安心して気を抜いてしまったのかもしれない。原因はよくわからないが、僕は4月に痔瘻になって入院してしまった。


 これには僕自身驚いたが、結婚以来初めての入院に家族もそれなりに動揺したようだ。小学2年の末娘が、

「お父さん、死なないよね?」と真剣に訊いてきて、痔で死んだらたまらないなと笑ってしまったが、妻が入院したときのことがよほどにショックだったのだろうと思うとあまり笑って済ます気持ちにはならなかった。


 妻はがん治療中でまとも働けず、それを支えるべき夫は痔で入院してこれまた働けない。そして貯蓄は尽きたーー。2018年、僕らの生活は上向いてくるだろうと漠然と信じていたが、客観的には春からかなり絶望的な状況のようだった。あくまで客観的には。


(『北方ジャーナル2018年7月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2018年

前回(第9回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2018年6月号に掲載されたエッセイの10回目です。



第10回

“ひでぇ親”なりの家庭防衛


 2017年9月下旬、妻は北海道大学病院に放射線治療のため入院した。1カ月前に乳房部分切除術という外科手術を受けて、ごく初期の乳がんであることが確定し、腫瘍も取り除かれたが検査では発見できないごくごく小さながんの芽を摘むために行なわれるのが手術後の放射線治療。妻は20回におよぶ放射線照射をおよそ1カ月半で受け、その胸は少し焼けただれたようになっていた。


 前回書いた通り僕は、最初の外科手術のときのように毎日見舞いに通うこともなく、家では子供たちの些細なトラブルにも苛立つようになっていた。溜まった家事を放り出してどんなに寝ても疲れが身体から抜けないような状態だった。しかし幸いなことに(?)僕は鬱病というものを経験してきたし、がんを契機に夫婦が別れる『がん離婚』という言葉も知っていた。これは放っておくとちょっとマズイことになるな、という自覚症状を持つことができていた。


 僕は妻が乳がんとわかるまで毎日のように釣りに行っていたが、彼女の手術以来、パタリとやめてしまっていた。日々の生活に忙しくて時間的に無理だったというのもあるけれど、海へ行って遊ぼうと思う心の余裕がなかったし、僕だけが楽しむことにどこかやましさもあった。このままでは『がん離婚』という結末に向かってしまうという危機感を抱きつつも、実家に子供たちを預けてパーっと遊んでストレス発散するような気分でもなかった僕は考え抜いた挙句、妻が入院する前の“日常”を取り戻そうと思うようになった。つまり釣りを特別な気分転換のようにするのではなく、今までのように生活の一部のような感覚で再開することにしたのだ。まずは近頃はすっかり読まなくなっていた釣り新聞を買い、天気予報や潮汐表も日々チェックすることから始め、コンディションが良さそうな日は早めに家事を片付けて子供たちを寝付かせてから深夜にコソコソと夜釣りに出かけるようになった。


 釣り場に行くと気のおけない釣り仲間が僕に言った。

「あれぇ? 奥さん入院してんじゃないの? 子供たちほっぽり出して釣りかい。ひでぇ親だなぁ!」


 まったくもって彼の言う通り。でも、変に気を遣われるより僕のろくでなさをズケズケと言ってくれることがありがたかった。


「いいの、いいの。こうやってね、釣りに没頭してる間だけでもいろんなこと忘れたいのよ」と答えるのが精一杯だったが、これが僕の本音だった。子供たちを家に置いて夜中に出かけるのは倫理的にも防犯の上でも親として許されることではなかったが、僕にはリフレッシュする方法はこれしか思いつかなかった。僕が心に余裕を持ちなるべく笑顔でいなければ家族そのものが壊れてしまうような気がしていた。


1日を終えられただけで「大成功!」


 10月下旬、妻が退院して自宅療養とホルモン療法の日々が始まった。ホルモン療法は服薬のほかに皮下注射があり、妻は退院とほぼ同時に2回目の注射を打った。最初の注射のときはしばらく腹部に打った注射の痛みが続き、服用する薬の副作用のめまいや頭痛で1週間ほど寝たきりだったが、今回は「少しは慣れてきたみたい」と気丈にふるまっていた。乳がんが見つかった頃より態度が冷たくなっている僕に気を遣っていたのかもしれなかった。


 妻は調子の良い日はテレビを観て過ごし、具合の悪い日は寝室から出てこれず、僕は家事と仕事をこなしながらも毎夜のように釣りに出かけて過ごしていた。妻が帰ってきて子供たちに少しずつ安堵の色が広がっていくのを感じつつ、11月の我が家は家族それぞれが思い思いに過ごしていたように思う。そんなある日の夕飯、小学6年生の長男が深刻な顔をして悩みを打ち明けた。


「中学生になって勉強についていけなくて、将来、思い通りの職業につけなかったらどうしよう。最近、失敗したときのことばっかり考えちゃって何もできなくなっちゃうんだよね…」


 しょうもないことを真剣に悩んでいる姿を見て思わず笑ってしまったが、妄想癖のあるこのちょっと変わった子にとっては一大事のことのようだったので僕なりに真面目に答えた。


「そんな先のこと考えても仕方ないでしょ。将来の夢のために今、いろんなことを我慢して努力することも大事だけどね、もしかしたら明日、事故に遭ったり災害が起きて死んでしまうかもしれない。もし死んじゃったら、遠い将来のためにやってきた努力や我慢はすべて無駄な時間だって考え方もあるよ」


 横で聞いている妻が妙にうなずいていた。がんという病気を経験して遠い将来の約束ができなくなっただけに思うところがあったらしい。


「だからね、まずは今日。とりあえず、今日を無事に終えられたことを喜ばなきゃ。お父さんだってね、スーパーで安い食材を見つけて献立考えて、クタクタになっててもご飯作って、こうやってみんなで食べられたら『今日も1日終えられた! 大成功!』って思ってるの。そうやって1日をなんとか過ごせるようになったら、それからちょっと先のことも考えたらいいじゃん。まあ、お父さんはね、大人だからね、1カ月2カ月先の家計も考えなきゃ本当はダメなんだけど、そんなちょっと先のことを考えるだけでも頭痛くなっちゃうの。大人のお父さんでもこんなんなんだから、子供のお前はまず今日1日だけを考えてみなよ」


 そうやって息子の悩みに答えているうちに、何か自分の悩みというか苦しみの答えが見えてくるような気がしていた。そう、まずは今日1日を大切に過ごそう。がんの治療をしていると5年生存率、10年生存率などというちょっと遠い未来の話ばかりが頭に入ってくるけれど、まずは今、家族で一緒に夕食を囲むことができていることだけでも幸せなことじゃないか。ずいぶん低い目標設定のようだけど、これが僕や妻にとって大切なことだったんじゃないかーー。


 息子のちょっとおかしな悩みのおかげで、僕はその日1日を大過なく終えるだけで満足できるようになっていた。そうやって11月を過ごすうちに僕らの生活は風向きが変わってきていた。


(『北方ジャーナル2018年6月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2018年

前回(第8回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2018年5月号に掲載されたエッセイの9回目です。


第9回

人生、谷あり谷あり

 2017年7月に乳がんが見つかり、8月に妻は手術のために入院した。4人の子供たちはちょうど夏休み。当たり前のことだが昼食は毎日用意しなければならず、給食がこれほどありがたいものだと思ったことはなかった。


また、この時期には僕の両親の離婚が成立。このことには本当に精神的に追い詰められた。

8月下旬にはガンダムのプラモデルで有名になってしまった長女へのテレビ取材が自宅で行なわれたり、9月上旬には地元小樽市のコスプレイベントへの協力など、仕事や家事以外にもいろいろと忙しいことが重なった。


実のところ、これまでほとんどのテレビ取材は断ってきた。もうすでに何度か受けてきたし、テレビの取材というのはとにかくシンドイからだ。拘束時間が長く、せっかく撮っても9割がた使われないのが普通だし、ときにはボツというのも珍しくないのがテレビ取材。もちろん、取材後の制作会社の人たちによる編集作業のほうが時間がかかり大変なのだろうけど、僕らはいつもノーギャラで依頼されているのでそんな苦労は知ったことじゃない。有名になることで何か利益があるなら取材を受けるけれども、特段無いので基本は断ってきたのだ。


それなのにしかも今、この大変なときに取材を受けたのは、闘病中の妻、そして離婚したばかりの僕の母にとって娘の露出は大きな楽しみとなるから。少しでも良い話題になればと、妻が不在で散らかしっぱなしとなった我が家にテレビクルーを迎えるべく、数日かけて大掃除し、取材当日は8時間ほどの拘束時間に耐えた(放映時間は5分強)。


 少し話が逸れてしまったが8月はそんな感じで慌ただしく過ぎ、月末には妻が退院、9月下旬には放射線治療のために再び入院することになった。その直前、幼い頃から今に至るまで世話になりっぱなしだった母方の祖父が亡くなった。


 妻が乳がんになり、両親は離婚してこのとき僕の中で父は死んだ。そして今度は大好きだった祖父が本当に死んでしまった。人生山あり谷ありとはいうけれど、近頃は谷続きだ。人生の谷の中で、今回の谷はどれだけの深さなんだろう。人生のマリアナ海溝はこれくらいなのだろうか。いや、もっと深いのだろうか。斎場で、骨壷に入りきらない頑丈な祖父の骨を砕き入れながら、僕はそんなことをぼーっと考えていた。自分自身が病気になったり裏切られたりするような不幸だったらまだマシだったのかもしれないな、とも思った。自分が大切にしている人の不幸というものはやりきれず、切ないものだ。僕の4人の子供たちは今のところ特に大きな病気はしていない。今はそれだけが救いでありがたかった。


 10月末まで妻は放射線治療のため北海道大学病院に入院した。しかし、僕は前回の入院と違って毎日のように見舞いには行かなかった。そして、見舞いに行っても妻と話すことを極力避けていた。いわゆる“冷たい夫”にこの頃の僕は変わっていた。


がんになった妻と別れる夫の気持ち


「がん離婚」という言葉がある。パートナーにがんが見つかったことをきっかけに別れてしまうことで、奥さんががんになった場合に多いケースのようだ。日本の夫婦は3組に1組が離婚するという統計もあるようだから、がんが契機になって別れるのも仕方ないかなとも思う。しかし、それにしてもがんになった奥さんを捨てるように別れるってひどい話だなぁと思っていた。そう、「思っていた」のだ。今はがんになった妻との別れを選択する夫の心情が僕にはちょっとだけわかるような気がする。


 妻が乳がんであるとわかったとき、僕はパニックに陥りながらも「夫である自分がしっかり支えなければ」と必死になった。僕自身は医者ではないので病気は治せない。できることといえば、妻が療養に専念できるよう環境を整えることだけだ。つまり、経済的不安をなくすこと、家事、育児ということになる。最初の1、2カ月は火事場の馬鹿力で慣れないこともそれほど苦にはならないし、妻も外科手術を受けていかにも病人らしく弱っていたのでとにかく助けなければという気になっていた。しかし、がんの治療というのは長い。ホルモン剤の影響で、妻もなんとなくぐったりしていたり機嫌の悪い日が続く。家庭の中の空気はまるで長い梅雨のようで、僕の身体にはいつもカビが生えたように慢性疲労がつきまとう。そして、“経済的な不安の解消”という責務。言葉にするには実に簡単だが、それがわずかな期間に努力するだけでなんとかできるなら、僕はとっくに贅沢な暮らしができているはずだ。現実はなかなか思い通りにはいかず、経済的な問題にぶつかるたびに自分の不甲斐なさを直視しなければならなくなる。


「今日も洗濯ができなかった…。学校への教材費の納付も忘れてしまった、子供に悪いことしたな。あ、トイレットペーパーがきれた…」などと、家事というのは日々タスクが溜まっていく。これをすべて徹底的にこなしていくのは実は不可能だし、もし仮にすべての家事を毎日高いクオリティでこなしたとしても誰も評価してくれるものではない。だから、できる範囲で家事は“ほどほどに”こなして、自分を追い込まず笑顔で日々を過ごすのが家事の大切なポイントなのだが、サラリーマン生活の長い男というものはこれがなかなかわからない。僕は生真面目なほうでなかったからそれほど苦しまなかったけれど、真面目な人ほど「ああ、今日もあれができなかった…」と自分を追い込み苦しむことになるだろう。それはまるで育児ノイローゼで悩む若い母親のように。


 そして、人はたぶんもともと孤独なものでそのままでは寂しいから結婚という手段を経てパートナーと一緒になり、肉体的にも一つになるのだろうけど、病に苦しんでいるのはいつも妻だけだし、闘病中の妻に「夫婦生活」を強要することはできない。夫は孤独な自分、経済的にも家事においても妻を助けられない不甲斐ない自分を突きつけられ、いつしか「どうしてこんなに俺を苦しめるんだ!」と、妻の顔を見るたびに思うようになっていく…。


最初はパートナーを支えようと思っていたはずなのに、いつしかそれは憎しみに似た感情に変わるのかもしれない。そして、現実的に考えればむしろ離婚して妻が生活保護を受ければ、夫が妻を支えるよりもしっかりと社会保障で妻の病気は支えられるかもしれない。がん保険に入っていない若い夫婦であるなら、互いの愛情はともかく現実的な選択として離婚を選択しても仕方がないのかもしれない…。奥さんががんになって別れる夫の気持ちはそのようなものではないのかなと、僕は自分の妻が乳がんになってから想像するようになっていた。


(『北方ジャーナル2018年5月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2018年

前回(第7回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2018年4月号に掲載されたエッセイの8回目です。



第8回

治療は続くよいつまでも

 2017年8月末。「乳房部分切除術」を受けて入院していた妻が退院した。腫瘍を取り除かれた妻は手術翌日からすっきりした顔をしており、それはまさに憑き物が落ちたようでもあった。しかしそれはたぶん鎮静剤の類のおかげで、術後数日してからは苦虫を噛み潰したような顔をよくするようになった。手術の影響で胸に刺すような痛みが時折襲うのだという。


 おっぱいをまるごと切除する「乳房切除術」ではなく、腫瘍もごく小さい1㎝程度だったとはいえ、腫瘍周囲の正常な組織ごと取り除くので、胸に直径5㎝ほどの穴が空いたことになる。思えば“部分切除”といったって、乳房の大部分を切除してわずかに乳房が残った場合であっても“部分切除”である。言葉の印象とは実に怖いものだ。ともかく、胸にぽっかりと穴の空いた妻は手術からおよそ半月弱を「アイタタタタタ」とぼやきながら、腕を上げるリハビリをして過ごすことになる。胸の筋肉組織を削ったので突っ張りが生じてしまい、痛みを堪えながらでもリハビリをしないと腕が上がらなくなってしまうのだ。


 退院までの間に切除した腫瘍の検査も済み、今後の治療方針が病院から説明された。乳がんには比較的おとなしいものから増殖が活発なものまでいくつかの種類があり、再発のリスクや治療方法が変わってくる。薬物療法ではがん細胞が持つタンパク質を調べてその特徴によって5つの「サブタイプ」というものに分類される。そのサブタイプや病気の進行(ステージ)によってホルモン療法しかしなかったり、ホルモン療法と化学療法(抗がん剤)を併用したり、化学療法しかしなかったりと標準的な治療方法がガイドラインで示されている。このサブタイプは腫瘍の発見時と手術の前、術後と時間の経過で稀に変化することがあるので、術後に変化がなかったことを確認してから担当医の説明があった。


 妻のサブタイプは「ルミナルA」。ごく簡単にいうと、増殖力が低くてホルモン療法も効きやすい5つのタイプで最も予後の良さそうなサブタイプだった。担当医であるさっぽろ麻生乳腺甲状腺クリニックの亀田博院長は、万一のことがあるのではっきりと「よかったね」とは言わなかったものの、乳がんの中でも安心していい部類であることがその表情から読み取れた。次いでこれからの治療方針についても説明があった。術後ほどなくして他の医療機関で放射線治療を受けること、そして5年間のホルモン剤の服用などについてだった。


 妻の手術に際して「センチネルリンパ節生検」が行なわれたとき、亀田院長はセンチネルとは斥候(見張り番)のことだよ、と教えてくれた。まずこのセンチネルリンパ節ががん細胞の襲撃を受けるので、ここにがん細胞の襲撃の痕跡つまり転移がなければ他のリンパ節にも転移がないと考えることができるということだった。同じような考え方で、妻の乳がんの発見や治療の流れをテロリストとの戦いに置き換えて考えるとこうなる。


 定期的な取り締まり(がん検診)ではなく、噂話(自己検診)でテロ組織(がん細胞)が活動しているのがわかった。聴き込み(エコー検査やマンモグラフィーなど)や潜入捜査(生検)によるとどうやらまだ組織は立ち上がったばかりらしい(ステージⅠ)。早いうちに悪の芽を摘み取ろうとテロ組織の本部にミサイルを投下(乳房部分切除術)、近隣住民に若干の被害が出たがそれはまあ仕方ない(手術の副作用)。念のため支部になりそうなところも特殊部隊を投入して建物を破壊(センチネルリンパ節生検)。しかし、そこにはテロ組織の痕跡すらなかったから今後しばらくはテロに苦しむことはないだろう。しかし本部を叩いたからといって本当にすべてのテロリストを殲滅できたかどうかは疑わしい。よし、この街全体を空爆しよう(放射線治療)。この空爆は街全体を焼け野原にするほどの威力はないけれど、本部の破壊から逃れたテロリストを仕留めることはできるだろう。でも、やはりまだ不安だ。テロの思想を広めないために少なくとも5年間は情報統制(ホルモン療法)を敷こう。これで完璧な平和が訪れるはずだーー。


 なんともしょうもない例えだが、イメージとしてはわりと間違っていない例えでもあると思う。がん治療とはこんな調子で徹底的に敵を殲滅するように戦略立てて行なわれる治療だ。近隣住民である正常組織の多少の犠牲にかまっていられないし、社会全体が息苦しくなっても国家が崩壊するよりはマシ、つまりは多少具合が悪くても死ぬよりはマシということで結構な期間の我慢を強いられる治療なのである。


 妻は8月末に退院し、放射線治療を受けるのには通院は不便で体力的にもツライので北海道大学病院に9月下旬から10月末まで入院して放射線治療を受けることになった。入院期間中に計20回の放射線の照射を受け、乳房組織内に残っているかもしれない微小ながん細胞を根絶やしにする治療だが、この治療によって妻の胸の片方はまるで日焼けしたようになり、表面の皮膚が一部荒れていた。ごく初期の乳がん患者でさえこの様子なら「がんと闘わない」と治療を受けないがん患者がいるのもうなずける気がした。


 放射線治療が終って退院してからはいよいよ本格的にホルモン療法の開始である。ホルモン療法といっても薬を飲んで数カ月に一度注射を受けるだけなのだが、その“だけ”というのが実にクセモノだ。妻が5年間毎日飲み続けなければならないのは、乳がんのホルモン療法ではごく一般的な治療薬である抗エストロゲン剤。


 これは乳がんの増殖を促すエストロゲンが乳がん細胞に近づかないようにする薬で、再発するリスクが半分近くに減る有効な治療薬だが、その副作用が妻にとってはかなりの負担だ。急なほてりや発汗などいわゆる更年期障害に似た副作用が出るのだが、それがいつでも出てるわけじゃなく昨日はほとんど症状が出なくて調子よかったけれども今日はかなりツライなどと、症状の出方が実に不安定。これじゃあまともに働けないんじゃないかと今でも不安になっている。


 もう一つの治療が卵巣機能を抑制する皮下注射だ。これは最初は1カ月毎で、慣れてくれば3カ月毎、6カ月毎に打てるようになる注射で2年間続けなくてはならない。乳がん細胞の増殖に必要なエストロゲンは閉経前、卵巣で作られるが、その卵巣の機能を抑制してエストロゲンそのものがあまり作られないように打たれるのがこの注射だ。その副作用は頭痛や肩こり、不眠、うつ症状などがある。あとこれは副作用とはいえないが卵巣機能を抑制するので生理が止まる。当然のことながらホルモン療法を受けている間は妊娠することができない。


 乳がんは30〜40代の発症が増えているし、出産の高齢化が進んでいるのでこれは厄介な問題だなぁと思っていたら我が家でもこれは他人事ではなかったようで「弟や妹が作れなくなっちゃった、ごめんね」と末娘に語り泣いて抱き合う母娘の姿が…。どうやら妻は本気で5人目の子が欲しかったらしい。


 いやいやいや、お気持ちはわかりますけど甲斐性なしの僕には4人の子の教育費だけでも絶望的でして、これ以上は本当に責任持てません。いや、その前にこのホルモン療法というのが結構財布に痛いものでして、高額医療制度を利用しても年間10万円以上の出費になるし、僕らが加入しているがん保険も適用されません。妻はもう新たにがん保険に入れませんが、これから保険加入を検討している方は本当によく検討したほうがいいです。がんが見つかったらまずまともに働けません。そして手術以外にも長い期間治療が続いてお金がかかります。僕のように妻の収入にも寄りかかっている旦那さんは特に奥様の保険、見直したほうがいいですよ、ホント。

(『北方ジャーナル2018年4月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2018年

前回(第6回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2018年3月号に掲載されたエッセイの7回目です。


第7回

乳房部分切除術


 2017年8月16日。さっぽろ麻生乳腺甲状腺クリニックで妻の外科手術が行なわれた。手術の名前は「乳房部分切除術」。おっぱいをまるごと切除する「乳房切除術」ではなく、腫瘍のみを取り除く手術だ。手術当日は長女が風邪をひいてしまい、下の兄妹3人だけを連れて付き添うことに。僕らにできることなど具体的には何もないのだが、家族や親しい人間が手術の際に身近にいることは、いざというときに役立つということを僕は経験している。


 長男の出産のときのことだ。朝5時にツルンと産まれて良かった良かったと長女を連れて自宅に帰って眠ろうとした途端、病院から電話が入った。


「産後の出血が止まらず意識が戻りません。奥さんの親御さんにも連絡を取ってすぐに来てください」


 親族を集めるということは危篤状態ということ。慌てた僕は指示通りに義父に連絡を取り病院に向かった。駆けつけたときの妻に意識はなく、心拍数も下がり続けていた。看護師たちがいくら声をかけても応答しないという。


「起きて、ねえ、起きてよ」


 いつもと変わらない感じで寝ている妻を起こすように呼びかけても応じない。僕は意を決して妻に平手打ちをして叫んだ。


「おい! 起きてよ!! 子供たちどうすんの! 一人にしないでよ!」


 そこで初めて妻の目や口が動き、混濁しながらも意識が戻った。そこから心拍数が戻るのにも時間を要しなかった。助産師がホッとしながら僕に言った。


「やはり私たちじゃ意識は戻せなかったんですね。ご主人じゃなきゃ危ないところでした。医学だけでは説明できない人間の不思議なところです」


 しばらく経ってこのときのことを妻は、

「パーッと視界が白くなって気持ちよくなって楽な世界に行こうとしていたら、なんだか呼ばれて戻らないとなぁと思って。そしたら急に苦しい世界になった…」と振り返っていた。良かった。殴ったことはバレていないようである。


 話が逸れてしまったが、ともかく傍にいることの大切さを実感しているので万が一のときのために手術日は長い時間付き添うことにした。


 手術前、妻はリラックスした状態でそのときを待っていた。落ち着きがないのは子供たちのほうである。妻を疲れさせてはいけないと気を遣いながらもソワソワして病室をウロウロしたり妻に甘えたり…。妻が手術室に入ってからは遠慮する必要がなくなったからか、


「大丈夫だよね? お母さん、大丈夫だよね?」

 と、僕に不安をぶつけてきた。


「できものをちょろっと切って取るだけだから大丈夫だよ。なーんも心配いらない」と答えて、手術中は子供らを近くの公園へと連れ出した。


 我が家は子供が4人いるので、父親である僕が子供らと遊ぶことは実はほとんどない。子供同士で遊んでくれるからだ。ただ、この日は珍しく子供らと公園で缶蹴りをして遊んだ。数年ぶりに僕は全力で駆け回った。


 手術後、妻は麻酔でぼーっとしながらも子供らに笑顔を見せていた。しばらくして執刀医の亀田博院長から説明があった。妻の腫瘍の大きさは12㎜。「センチネルリンパ節生検」によってリンパ節への転移がないことがわかり、ステージとしてはⅠ期であることが説明された。


 乳がんのがん細胞が最初に転移するわきの下のリンパ節というものがあり、これを「センチネルリンパ節」というそうだ。センチネルとは斥候、見張り番のこと。まずここががん細胞の襲撃を受けるので、ここに襲撃の後つまりは転移がなければ他のリンパ節にも転移がないと考えることができ、センチネルリンパ節以外のリンパ節を取り除く手術を省略しても再発率に影響がないことがわかっている。妻の場合、わきの下をちょっと切ってリンパ節のひとつだけを切除するだけで済んだということだ。


 一通り説明した後、亀田院長はおもむろにホルマリン漬けの組織が入った小瓶を取り出して話し出した。


「切除した組織を息子さんが見たいということだったので用意したけど…息子さんは?」


 そうだ。長男がどうしてもがん細胞を見たいというので妻からお願いしていたのだった。病室にいる息子を呼び出し、小瓶から取り出した組織を眺めさせる。


「がん細胞といってもその周りの組織ごと取るからなかなか見えないんだけどね。そう、この辺りにあるんだよ」


 ピンセットでこねくり回しながら息子に説明する亀田院長。一言も話さず聞き入り、じっと見つめる息子。写真を撮ったが、掲載するのが憚られるくらいにグロテスクなものだったから息子もショックを受けたのだろうか。このときは何かを考えているようで押し黙っていたので後日に感想を訊いてみた。


「がん細胞って見たことないから見たかったの。転移するっていうから液状だと思ったけど固体だった。見れて良かった。勉強になったよ」


「それだけ?」


「うん、それだけ」


 母を苦しめたがん細胞を確かめたいとか、そういう気持ちは一切なく、ただ単純に興味があったから見たいとせがんだのだという。我が子ながら変わった子だ。


 ただ、息子のおかげで組織を僕も見たことは結果的に良かったと思っている。腫瘍のみを取るという乳房部分切除術といっても、腫瘍から1㎝程度離れた正常な組織も取り除くので最終的には直径約5㎝の球体状の組織がえぐり取られることを、自分の目で見て理解することができたからだ。


 術後、妻は腕がうまく上がらなかったり、疼痛に苦しむことになった。そんなときも「あれだけの組織を取ったのだから仕方ないよな」と妻の気持ちに寄り添いリハビリに協力しようという気になれたのは、好奇心の強い息子のおかげで僕も見ることになったあの小瓶のおかげなのである。


(『北方ジャーナル2018年2月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2018年

最近、末娘のみも(8)が「ガンダムおしえて」とうるさい。


ちょっとでも僕の暇を見つけては「今日はガンダムできる?」とうるさい。


ようするに、模型を教えて欲しいと言ってきているのです。


模型なら姉や兄に教えてもらえるだろうけど、姉はおっかないし、兄は何を言っているのか大人でもよくわからない。


だから僕に言ってくるのか、それともただ一緒に父親と遊びたいだけなのか。


時間がないわけじゃないけど、「よーし教えてやるか」とすぐにはならないのが我が家流です。


長女のめいのときもそうでした。

突き放しても突き放しても、全然諦めなかったんで、根負けしたというか見込みがあるかもなと教えました。


突き放しが効いたのか、バネはよく縮んでいたようでよく飛びました。人の話をよく聞いて、人の手元や完成品をよく見ていました。


何事も準備は大事。


いまは弓をぎゅーっと引きしぼる時間だということで、末娘みもの「ガンダムおしえて」には応えません。


お父さんはモンハンをやり続けて無視するのです。

突き放すのです。


それでもまだ「模型がもっとうまくなりたいから近道教えろや!」ってなっていたら、「近道なんてないんだぞ、ばーかばーか」って教えてやろうと思います。


そもそも上手い下手なんて尺度はそぐわない分野なんですけどね。

知ってたらもっと模型が面白くなる。そんな考え方や作品の見方、基礎技術を子供達には伝えたいと思っています。

前回(第5回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2018年2月号に掲載されたエッセイの6回目です。


第6回

 乳がんが告知され、手術を2週間後に控えた8月初め、妻の医療保険にがん特約を3年前に付けたばかりだったことに気づき担当者に連絡をとった。担当者であるソニー生命の高橋さんは申請に必要な書類を持って早速駆けつけてくれた。今後の治療スケジュールからおおよその保険金を予測すると、治療費を差し引いても妻の収入の半年分は手元に残るだろうということがわかった。このときの安堵感は、まるで命が助かったと思うくらいにとても大きなものだった。まだ治療はこれからなのだけれども、がん患者とその家族にとって、経済的な不安を感じずに治療に専念できるというのはそれほど大きなものなのだと実感した。

「保険に入るというのは自分の生活を守ると思われる方が多いんですけど、実はそれだけじゃないんです。ご自身の親兄弟の生活を守るためでもあるんじゃないかと僕は感じています。大きな病気をすると治療のために働けなくなりますから、治療費や生活費といった問題に直面します。保険に入っていないと、どうしても身内に頼らざるを得ませんよね。保険に入っていれば身内に借金をしないで済みますから、結局のところ家族を守るということになるんです」

 高橋さんのこの言葉も僕の心によく響いた。先般、僕の両親は離婚を決めたばかり。いくらお金に困っていても独りとなった母に無心するわけにはいかなかった。妻にとっても安心感は強かったようだ。この頃の妻はなにかにつけ謝ることが多かった。家事を代わりにやっても、病院の支払いのときも「ごめんね」と僕に謝ってばかりだった。体調が悪く思い通りに動けないことや、入院に先立って勤めていたパートを辞めることになり収入が無くなったことも負い目に感じているようだった。自分の存在が僕や家族の重荷になっているのではないかと恐れているようにもみえた。

「入院すれば1日1万円の給付があるよ。日給1万円だ。手術も給付金が下りるからこれはがんばったボーナスだね。出稼ぎだと思ってがんばって!」

 そう茶化して僕は妻を励ました。

 保険金で食べていく。字面だけみると実に不謹慎だ。でも、がん保険による給付金は、妻の治療費だけではなく僕らの生活を実際に支えることになる。妻はけっして重荷ではなく、あなたのおかげで家族が食べていけるんだ、自信を持ってほしいと僕は伝えたかったのだ。

妻不在の喪失感を埋めるために

 いくつかの検査を経て8月中旬、妻は手術のため入院した。退院予定日は8月末。2週間ちょっと家に妻がいない生活を送ることになった。4人の子供たちは夏休みの真っ最中。当然のことながら学校の給食がないので毎日昼食の用意をしなければならない。妻不在の家で、である。この状況、普通のサラリーマンで家事が不得意な夫であったらまさに絶望的な状況であっただろうなと容易に想像できた。

 しかし、この点で我が家は実に恵まれていた。僕はいわゆる一般的なサラリーマンではないので家に居ることができたし、家事も得意なほうなので普段から毎日の夕食は僕がほとんど作ってきた。しかも隣家は妻の実家なので困ったことがあればすぐに頼ることができたし、義母は毎日のように夕食の一品、あるいは全部を作ってくれた。

 妻の入院は初めてではない。4人も子供がいるのだから、これまでその出産のたびに入院してきたし、妻不在期間の仕事と家事の両立がいかに大変なものかも身に沁みてわかっている。だから大丈夫。そう思っていたが、今回ばかりは様子が違ったようだ。出産による不在とがん治療による不在。妻が家にいないということは変わらないのだけれども、不在の理由が異なるだけでこれほど違うのかと思い知った。

 子供たちはいつも明るく振舞っていたけれども、妻の不在に明らかに動揺していた。末娘はまだ7歳。小学生になったとはいえ、まだまだ甘えたい盛りだ。それに末娘は母親がいない家で眠りについたことがこれまで一度もない。妻と半月の間、離れて暮らすということだけでも末娘には大きな出来事だった。出産による入院であったら、入院期間中は家事が大変で寂しいというだけだったろう。退院してきたら新たな家族が増えるという希望もあったろう。だけども、今回はがんの治療のための入院である。退院してもすぐに完治といえる病気ではないし、子供たちには母親の喪失感と不安だけが重くのしかかっているように見えた。

 そんな子供たちの動揺を見て僕は妻の入院期間中も家になるべく居ようと思った。当初は妻の分も働こうと時間を作って現在の仕事以外にアルバイトもしようと考えていたのだ。しかし、当面は保険の給付金で食いつなぐことはできるし、毎日子供らを連れて見舞いに行くことで妻も子供たちも安心できるのではないか、今回の入院が子供たちの心に暗い翳を落とすことにならないのではないかと考え直したのだ。そして、どうせ家にいるのなら子供たちの様子を動画に収めてユーチューブにアップし、入院中の妻に届けようということも考えた。それが再生数を稼ぐことになったら新たな収入になって妻の経済的な不安も少なくなるという微かな希望もあったけれど、自宅に居ながらやれることはなんでもやらなければという焦燥感が僕にはあった。何かしていなければ落ち着かない。今にして思えば、妻不在の喪失感は僕にも襲いかかっていたようだった。

 8月の夏休みといえば、我が家の子供たちは毎年プラモデルの制作で家に籠るというのが恒例行事だ。かなり変わっている夏休みだが、長女のめいはガンダムのプラモデル「ガンプラ」のワールドカップのジュニア部門で日本大会を5連覇しており、長男の柾は模型誌の『ホビージャパン』が毎年開催している全国コンテストのジュニア部門で3連覇を果たしている。両コンテストの締め切りは同じで9月1日。そのため、8月は追い込みでいつもプラモ作りばかりしているのだ。長女のめいはテレビや新聞などにも出ているし、ユーチューブが収入源になることはまったくの夢物語ではないかもしれない。そんな希望を持って僕は慣れない動画編集に四苦八苦しながらも夜な夜なパソコンに向かった。

 子供たちもガンプラに一所懸命向き合うことで母親の不在を少しまぎらわすことができたようだった。特に長女のめいの制作姿勢には鬼気迫るものさえ感じられた。妻の入院を控え、当初は僕も今回ばかりは制作を諦めるよう勧めた。めいの場合は他の子よりも没頭の度合いが強く、制作時間も長いので妻のいない当時の環境ではとても締め切りに間に合わないように思えたし、満足のいかない作品が出来上がったときに妻が責任を感じることが僕は怖かったのだ。しかし、めいは諦めず、弟たちの面倒や家事をよく手伝いながらも机に向かったときはまさに鬼気迫る集中力で作業をこなしていた。前年に初めて日本代表を逃していたが、そのリベンジというよりも母親が大変な思いをしている今だからこそ絶対に世界一を獲るんだという強い信念を感じた。

「でも、作っているうちにそんなことは全部忘れて、作っていることがただただ楽しくて作品に救われたんだけどね」

 めいが後になってそう話していたように、模型に向き合うことは子供らの不安を和らげ、その姿は入院中の妻を元気付けることにもなった。そういう意味で僕の動画編集は一定の成果を得た。が、残念なことがただひとつ。現在になってもいまだに1円の収入にさえなっていない。


(『北方ジャーナル2018年2月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2018年

前回(第4回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2018年1月号に掲載されたエッセイの5回目です。


第5回


 自分への怒りを娘に八つ当たりし、罪悪感やら虚無感やらよくわからない感覚に囚われた僕は子供たちを寝かせた後、ふらふらと風呂場へ向かった。シャワーを浴びていると止めどもなく涙が溢れてきた。嗚咽を隠すように僕は長い間シャワーを浴び続けていた。

 少し落ち着きを取り戻し、風呂上がりに台所で水を一杯飲んで喉を潤す。

「大丈夫?」

 いつの間にか妻が台所に来ていて心配そうに僕を覗き込んでいた。突然の登場にびっくりしたことは間違いないけれども、僕は自分の鬱屈した気分を隠すように大げさに驚いてみせた。

「びっくりしたぁ! 大丈夫なの? 寝てた方がいいんじゃない?」

 妻は微笑んで続ける。

「ごめんね、急に苦しくなっちゃって…。それにしても、あの子も仕方のない子なんだから」

 がん患者に心配され、謝られ、我ながら本当にどうしようもないヤツだと思う。僕というヤツは。

「いや、ごめん。怒鳴ったりして。がんにはストレスが一番良くないよね。一番良くないことを僕がやるなんてね…」

 言っている途中で自分が心底情けなくなって涙がこぼれてきた。ダメだ、こんなときに僕が泣いてどうするんだと堪えていたら妻が僕の肩を抱いて慰めた。

「あなたはいつも大事なことを我慢しすぎだよ。実家のことも大変なときにちゃんと悲しませてあげられなくてごめんね。泣けるならちゃんと泣いたほうがいい」

 その夜、僕はしばらく泣き続けた。妻の前で涙を見せるなんて結婚以来初めてのことだったように思う。そしてその涙は情けなさからくるものじゃなく、いつの間にか妻ががんになったことへの悲しさを表す涙へとなっていた。ここにきてようやく僕は妻のおかげで素直に悲しむことができた。

悲しんだ後は金勘定ばかり

 妻を支えるためにしっかりしなくては、と気張ってばかりいたけれど、順序が逆だったのかもしれない。泣くことで僕は自分の気持ちに向き合うことができ、翌朝からは空回りせずわりと冷静に物事を考えられるようになっていた。

 何はともあれ不安をひとつひとつ整理して片付けられるものから手をつけていこう。手術を約2週間後に控えていた7月下旬、妻の体調も不安定だったので勤めていたパートを辞めるよう勧めた。我が家の家計は妻のパートに頼る部分が大きかったので簡単に辞められるものではなかったけれど、今はとにかく治すことに集中してもらおうと思ったし、妻の体調を見ても働くことは実質不可能なことのように思えたのだ。

 共働きでやりくりしていた家計が片肺飛行になり、今後の生活を僕一人でなんとかしなければならなくなったわけだけれど、その前にまず解決しなければならない問題があった。来月の手術と入院費用の工面だ。4人の子供がいて僕らも40代になっていたけれど、恥ずかしながら僕らには貯金というものがまったくなかった。恥ずかしながら、とは言ったものの世帯年収は300万円以下なので、借金をせずに日々を過ごしていくのが僕には精一杯だった。

 入院費がいったい幾らになるのか不安だったが、健康保険には「高額療養費制度」というものがある。入院などで医療費が高額になった場合に収入に合わせて一定の金額(自己負担限度額)を超えた部分が払い戻される制度だ。今回は高額になることが事前にわかっているので「限度額適用認定証」を申請しておけば、払い戻しを待つことなく最初から限度額だけを払えば済む。我が家の自己負担限度額の区分は一番低い「区分オ」(被保険者が市区町村民税の非課税者等)で限度額は3万5400円。ちなみに、入院時の食事代や病衣代は自由診療扱いになり高額療養費制度が適用されない。入院先の病院に今回の入院で幾ら必要なのかを問い合わせると、我が家の自己負担限度額に食事代などを合わせると5万円超の支払いになるということだった。

「高額療養費制度のおかげで助かった。ありがとう…。国民皆保険制度のある国に生まれて良かった」

 もちろんそう思うのだが、ありがとうと感謝してばかりもいられない。入院費が10万円だろうが100万円だろうが、負担額が5万円程度というのは実に助かる。すごく助かる。しかし、である。この入院ですべての治療が終わるわけではない。その後も放射線治療、抗がん剤やホルモン剤による治療が待っている。少なくとも5年は続くそうだ。のちに知ることになるのだが、ホルモン剤の注射の自己負担額はかなりの高額である。毎月射つとなると1回3万円以上する薬なのだ(半年に一回の製剤にすると体への負担は大きいが幾分安くなる)。高額療養費制度のおかげで自己負担額は月に高くても5万円程度に抑えられそうなことはわかったが、決してそれは我が家の家計が救われたということではなかった。妻が働けなくなった上に新車のローンを1台分抱えたようなものだった。

 なんとかして僕一人で我が家の家計を切り盛りしつつ、さらに車一台分のローンくらいの負担を払えるようにしなくては…。どうやったらお金を稼ぐことができるだろう、う〜む…。と、眉間にシワを寄せて無い知恵を絞ろうとしていたら、妻がハッと気がついたように言った。

「そういえばわたし、がん保険に入れてもらったよね」

 僕らは3年ほど前に保険を見直したばかりだった。長女が生まれたときだから、僕は14年ほど前から同じ保険会社の生命保険と医療保険に入っていた。加入当初の担当者は僕らのライフプランを親身に考えてくれて、無理なく最低限の保障を考えてくれていた。その担当者が変わることになったのは3年ほど前。がんに斃れてしまったのだ。後任の担当者が挨拶に訪れたとき、ちょうど妻も資格を取って働き始めていたので妻の保険を見直すことにしたのだ。妻は家族歴や生活習慣から見てもがんのリスクは低いように思えたが、がんで亡くなった前任者が後押ししてくれたのかもしれない。妻の反対をよそに僕は妻の保険にがん特約をつけることにしたのだった。

 僕の記憶は曖昧だったが、妻は保険料振込のたびに「また保険代が無駄になった」と思っていたのだという。どんな保険だったのか、本当に加入していたのかも忘れていたので慌てて証書を引っ張り出してみた。たしかにがん特約に入っていた。死亡後の保障というよりも治療を支える医療保険に近い特約を選択していたようだ。ともあれ、これで入院費は工面できるし、その後の生活も半年はなんとかなりそうだった。

「すごいな、3年前の自分!」

「えらい! えらい!」

 保険の証書を二人で眺めながら、久しぶりに夫婦で心から笑ったような気がした。


(『北方ジャーナル2018年1月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2018年

前回(第3回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2017年12月号に掲載されたエッセイの4回目です。


第4回


告知

2017年7月14日、妻の診断が確定した。

「乳がんです」

 札幌市にある麻生乳腺甲状腺クリニックの診察室で、亀田博院長はパソコンのディスプレイに目をやりながら淡々と話した。それはまるでコンビニの店員が、

「420円です」と会計を言うのと同じような口調だった。人生を左右するような大事なことをそんな事務的に話すのはいかがなものだろうと思う人もいるかもしれないが、僕は院長のそんな口調に救われた。テレビドラマのよくある台詞のように、

「実は…残念ながら…がんです…」などと、じっくりと熱く語られてしまっていたらかえって混乱の度を強くしていただろうと思う。

 亀田院長は告知の後、丁寧に妻のがんがどういったものであるかを説明した。しかし、このときの僕らは院長が何を説明しているのかまったく頭に入っていなかったように思う。がんの告知とは、される側にとってそれほどのインパクトがあるものだった。

「五分五分とは聞いていたけど、やはり悪いほうだったか…。どうするんだこれから。4人の子供らになんて言えばいいんだ。そうだ、一番大変なのは妻だ。こんなときこそ男であり夫である僕がしっかりしなければ。…しっかりしなければ」

 そんな考えが頭の中をぐるぐると駆け巡るだけで、院長の話はさっぱり耳に入っていなかった。

「…ということなんですが、わからないことありますか?」

 院長がそう尋ねてきてハッと我に帰る。院長の表情を見ると、まるで自分の話が届いてないことを悟っているようだった。

「あの、えーっと…、部分切除じゃなくて乳房を全部取ってしまったほうがいいんじゃないでしょうか…」

 僕はかろうじて部分切除で手術をするということだけは聞こえていたので、全摘術のほうが予後がいいのではないかと訊いた。妻は押し黙ったままで僕はその顔を見ることはできなかった。

「すべてを取ってしまうというのは、みなさんが思っている以上に見た目が変わります。見られることが恥ずかしいというより、見る人がびっくりするだろうからと温泉に行くことを控える患者さんもいるくらいなんです。今は乳房の再建術も進歩していますが…」

 案の定、見た目の心配をされたので僕もすかさず切り返す。

「いや、この際、見た目はどうだっていいんです。万が一乳がんだったときは、見た目は気にせずに生き残るのに一番いい方法を取ろうと妻とも話してきました」

 まくしたてる僕に、院長はまあ落ち着いてという表情をしながらゆっくり話し始めた。

「奥さんのがんの進行や転移の状況はこれからもっと詳しい検査をしますけど、現段階では部分切除でも全摘術でも予後は変わりません。それなら部分切除がいいでしょう、ということなんです」

 それからは今後のスケジュールが説明された。手術日は翌8月16日、その前に3度の検査が予定されたが、そのうちの1つである乳房造影MRIは妻が喘息持ちのために中止にした。術後はホルモン剤による治療がかなり長い期間行なわれるという。

「生理はまだありますか?」との院長の質問に、

「あります!」と妻ではなくなぜか僕が素っ頓狂な声で答えてしまい恥ずかしかったのだけれど、こんなときにいつも笑ってくれる妻は俯いたままだった。

死を意識して発する言葉

 14歳の長女はいわゆる“難しいお年頃”だ。小さな頃から聞き分けのいい子で、はたして反抗期がくるのだろうかと心配していたのだが、中学生になってみるとそれなりの反抗はあるようで妻とよく小競り合いをしていた。ある日、何か物を置きっ放しにしていたとかだったと思うが、生活の中での些細なことで妻が長女に注意していた。いつものごとく、長女は返事だけをしてスタスタと2階へ行こうとしていた。

「都合が悪くなったらすぐいなくなろうとする。あなたにちゃんとした大人になってほしいから伝えているのに。いつまでも一緒にいられるとは限らないんだよ」

 妻のそんなぼやきを聞いて僕はハッとした。妻が乳がんでなかったらなんてことない愚痴だったはずだ。

「いつまでも一緒にいられるとは限らない」

 そんな当たり前のことが現実味を持って彼女の口から発せられたかのように感じた。

 僕は以前、仕事で医療系の記事を書きながらこんなことを言っていたことをふと思い出した。

「がんという病気は悪い病気じゃない。だって、人生を終える準備ができるんだもの。突然死に比べたら良い病気なんじゃないか」

 この頃の僕は家族のために仕事をし、どこか一人前になったような気がしていた。しかし、まるでわかっていなかった。なにかわかっているような気がしているだけだった。なにが「人生を終える準備ができる」だ。お前になにがわかるというのだ。死ぬかもしれないという現実を受け止め、次の世代になにか伝えようとする妻の姿を見て、僕は若かった自分を殴ってやりたかった。

 僕は部屋に引きこもろうとする長女を追いかけ、

「母さんが注意しているのに、なんだその態度は! 母さんがどんな気持ちでお前に注意しているのかわかっているのか!」と大声で怒鳴り、きつく叱った。ひとしきり説教した後、妻を探すと寝室で彼女は伏せていた。付き添っていた次男が言うには、胸の痛みを訴えて動けなくなったらしい。長女が自分のせいだと思ったようで妻に「ごめんなさい」と繰り返し謝まっている。

「いや、僕のせいだ…」

 僕は自分の未熟さへの怒りを娘にぶつけてしまった。大声で怒鳴り散らして八つ当たりしただけではないか。それが妻のストレスとなったのではないか。妻を支えなければならない僕がなにをやっているのか。先般、両親の離婚で僕は父と絶縁した。父が僕にしてくれたように、僕は自分の子供を育てようとしてきた。しかし、今になって父の存在を否定することはこれまでの僕の子育てを否定することにもつながった。僕は模倣すべき父親像を失っていたのだ。妻も子供も支えられぬ自分が小さく、とても小さくなっていくような感覚に僕は囚われていた。


(『北方ジャーナル2017年12月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2017年

前回記事はこちら。

北方ジャーナル』2016年7月号に掲載されたコラム『根掛かり人生 ~今日も地球を釣っています…~』の第3回です。


Vol.3

魚を知り己を知れば
百釣危うからず…?

「外道」=「悪」ではないのよ

 昨年(2015年)夏のことです。釣りを始めて1カ月ほどの頃、僕ら親子は覚えたてのサビキ釣りでチカ釣りを楽しんでいました。チカのシーズンは3〜6月くらいのようですが、日によってムラはあるものの夏の終りまで楽しめます。

「今日はチカが寄ってきてくれないなぁ…」って日もわりとあるのだけど、そんなときでも「外道」のウグイがヒットして、わりと強い引きで暇つぶしをさせてくれるし、北海道の夏の海は心地よい潮風が吹いてて、釣れても釣れなくても海にいるだけで気分がいいもんです。

 ところで「外道」とは、もともと狙っていなかったけど釣れてしまった魚のこと。子供たちと釣りをしていると実にさまざまな外道がかかります。当初釣ろうとしていた魚の反応がなかなか無いと、子供って飽きちゃうんですよね。すぐに自己流の釣りを展開して変な物を釣るから見ているとこれがなかなか面白い。ウチの次男坊はチカ釣りでデビューして初めて釣った魚がなぜか外道のカレイだったし、長男坊はヒトデをよく釣ります。いつだったか「うわぁ!大物だぁー!」と竿をしならせて、でっかいウミウシを釣り上げてギャラリーを笑わせたこともあったっけ。

 彼らとは違い、娘の場合は嬉しい外道が多いかもしれません。いつものようにチカ釣りをしていたある日のこと、ウグイ以外の外道が娘のサビキにかかりました。

「な、なにこれ? ドジョウ??? キモッ!……でも、よく見ると可愛いかも(笑)」

 どうやら、サビキ仕掛けを一度底まで落としたときにパクリと食いついてきたらしいその魚は、僕もいったい何であるかわからなかったけれども、毒魚ではないようでしたし、めんどくさいからチカと一緒に天ぷらにして食べてみたんです。

……んまーい!

 予想外の美味さに驚いた僕は本などを漁ってこの魚が「ハゼ」であることを知ったのでした。

万人に愛されるハゼ釣り

 このハゼ、釣りとしてはイージーな部類に入り老若男女問わず誰でも釣れるし、数を釣ろうと思ったら奥の深さもあるターゲットです。そしてなにより、美味しいのにお魚屋さんではまずお目にかかれない魚。これから釣りを始めるという人がいるなら、ぜひオススメしたい釣りです。

 ハゼ釣りの仕掛けはどこの釣具店でもセットで売っているのでまずはそれを買って仕組みを覚えておくといいでしょう。ちょっと慣れると自分でも簡単に作れるようになります。

 餌はイソメがポピュラーですが、僕は気持ち悪いし齧ってきて腹立つしでいまだに苦手です。でも、イソメ型の疑似餌も今では売っているし、魚を短冊上に小さく切っても餌になるし、エビでも釣れます。はっきり言ってなんでも釣れるんじゃないかなと思うときがあるくらい、ハゼは好奇心も食欲も旺盛です(笑)。

魚の気持ちになってみる

 どんな仕掛けでどんな餌ならよく釣れるのか。釣具店の店員さんに訊けば丁寧に教えてくれます。でも、実はもっと大事なことがあることをハゼは僕に教えてくれました。たまたま外道として釣れて、しかもやたら美味かった〝謎の魚〟を知りたくてこのときの僕はネットやら図鑑でハゼの生態を調べてみたんです。

 ハゼは砂や泥を好み、泳ぎがそれほど得意ではないこともあって上・中層に浮いてくることはまずなく、底あたりをウロウロして身体のわりには大きな口で虫や小魚を丸呑みして過ごしているようです。寿命は1年ほど。春に岸寄りして産卵して多くはその命を終え、産まれた幼魚は浅場で秋口までプランクトンや虫などを食べて成長し、冬になると沖の方へ移動していきます。釣りで一般的に狙うのは夏から秋にかけてほどよく大きくなった個体です。

 魚のことを知ると、どうやって釣ればいいのかが見えてきます。まず水深はそれほど深い場所でなくてもよく、泥か砂の底に仕掛けを落としてずるずると引くか、たまにストップしたりチョンチョンと浮かせて好奇心を煽れば食いついてくるはず。泳ぎもあまり得意ではないから、満潮に向かう時間帯、つまり上げ潮のときに潮に乗って足下に寄ってくるんじゃないか──。

 そうなると釣り方としてはいわゆる「ちょい投げ」釣り。ちょい投げとはその名の通り5g程度の比較的軽いオモリをつけて足下からせいぜい20m先までをちょいっと投げる釣りのこと。竿を持つとニンゲンというのはできるだけ遠くに仕掛けを投げたくなる生き物ですが、いきなり上手く投げられるはずもないし周囲に人がいるとかなり危険です。狙ったところに仕掛けを落とす、というキャストの基礎を学ぶ練習としてもちょい投げはかなり有効です。

「ねーねー! 今の見たー!? すごく遠くまで飛ばせるようになった!」

 我が子らも竿を持って投げる釣りとなると、どこまで遠くに飛ばせるかと競争を始めるんですが、沖のほうに飛ばせたからといってハゼが釣れるわけではありません。

「ぜんぜん遠くに投げれなーい」と、いじけ気味の次男坊にハゼという魚がどんな魚なのかを話したら、

「そしたら遠くじゃなくて近くにいるかもしれないね!」と、自分の足下にポチャンと仕掛けを落とす次男坊。そして仕掛けをちょいちょいとたまに動かしています。いくらなんでもそんな近くにいないでしょ、と思っていた矢先、

「釣ったどー!」との雄叫び。その後もキャストすることはほとんどなく彼の足下から次々とハゼを釣り上げていくのでした(笑)。

 魚の気持ちになって作戦を練り、シナリオ通りに釣ったときの満足感は人を釣りの虜にします。「釣れた」のではなく「釣った」ことの喜び──。ハゼはそれを僕ら家族に教えてくれたような気がするのです。

 ……といっても、すべてがシナリオ通りにいくわけもなく、まったく釣れないときも往々にしてあるわけで、そのツレなさにまたソソられてしまうし、釣れなくても海に居るだけでも気分がいいのが釣りという趣味の良いところなんですよねぇ。家内に言わせれば「あなたのダメなところ」らしいけど…。


(『北方ジャーナル2016年7月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2016年

前回(第2回)記事はこちら。


『北方ジャーナル』2017年11月号に掲載されたエッセイの3回目です。


第3回

不幸は重なり続くもの

 乳がんであるかどうかの結果が出るまでの2週間。結果が出るまでになぜこれほど時間がかかるのか、と最初の数日は恨めしくなった。妻とは結局、どう話していいかわからずじまいで僕は「その話題」に触れるのが怖くて彼女を避けるようになっていた。

 実はこのとき、僕はまともな精神状態ではなかった。もちろん、妻のことで動揺していたけれどもそれだけじゃなかった。実はちょうどこの時期、僕の両親の離婚の協議が進められていたのである。

 僕の父は病気がちで仕事を早めにリタイア。母は代わりとなってよく働き、生活を支えていた。いつか家のローンを払い終え、自分も定年を迎えた後は父と一緒にゆっくりと孫たちの成長に目を細める老後を待ち望み、母はそれを心の支えに日々がんばってきたのだと思う。そんな老後が必ずやってくると信じて疑っていなかっただろう。しかし、母が忙しい日々を送っている隙に、父は若い愛人を作り家を出て行った。

「ごめんなさい…」と僕ら兄妹に泣いて謝ってばかりの母を慰めながら父のいない「家族会議」が何度も開かれていた。気性が激しく何かと問題の多かった父に一番懐いていたのは母似の僕だった。父に似て怒ってばかりの兄と妹を「まあまあ…」となだめつつも僕は実に複雑な心持ちだった。

 子供たちの成長を見届け、夫婦で老後を過ごす。僕もそんな未来を信じて疑っていなかったけれど、今は妻が乳がんかもしれないという事実が突きつけられ、そんな未来が崩れそうになっている。一方、父は母が健在であるにもかかわらず、それを裏切り捨てて別の老後を過ごそうとしているーー。

 許せない、という感情はもちろんあるのだけれども、自分の境遇とのあまりの違いに呆れ果て当時は怒る気力もなかった。そんなことよりも今考えなければいけないのは、母がこれから迎える現実の老後だと思っていた。慰謝料として父はどの程度を考えているのか? 実家の所有権は? リタイアした後の母を誰が面倒を看ていくのか?ーー。現在の貯蓄も含めて率直に兄妹で話し合いが続けられ、ある程度の結論と「離婚契約」の内容が決まった。僕ら兄妹はすでに独立して家庭を持ち、それまでは年に一度顔を合わす程度だった。変な話だが、父のおかげで父以外の僕らの絆は強まったように思うし、今では何かにつけてよく連絡を取り合うようになり、実家で母を囲んで会うようになった。そんなある日、妹が良いことを言っていた。

「家族というのは、ただ血が繋がっているから家族なんじゃない。家族であろうとしているから家族なんだと思う」

 僕は血縁というものは切っても切れないものだとそれまで信じ込んでいた。家族の誰かが世間に後ろ指を差されたり、たとえ犯罪者になったとしても最後の味方になってやれるのは家族しかいないと考えていた。しかし、今回の離婚の一件で考えが変わった。縁というものがその人の考え、心の持ちようだとしたらたとえ血縁者であろうとも、家族であろうとしない者、家族を裏切る者との縁は切ることができるはずだ。僕は父親との絶縁を決め、彼の葬儀にも出ないと決めた。それを孫である子供たちにも伝え、泣きながら話を聞く子供らに、

「もし、僕がお前たちを裏切るようなことがあったら、そのときは遠慮なく僕を父親と呼ぶのをやめて縁を切りなさい」とも話した。

夫婦で決めたこれから

 妻の検査結果がどうなるのかわからないし、なんと声をかけていいのかもわからない、さらに実家の離婚騒動でバタバタしている、しかも仕事は繁忙期…。7月上旬はそんな状態で過ごしていたが、ある日、疲れからか僕は母に妻が検査を受けていることを漏らしてしまった。

「それならちゃんと話し合いなさい。どう話していいかわからないなら、素直にそう言えばいいじゃない。夫婦なんてそういうところからボタンをかけちがうんだよ。私みたいに後悔するよ」と言われた。実際にボタンをかけちがってしまった人が言うことなのだから、その言葉は重かった。

 検査結果が出るまで2週間。当初はどうしてそんなに時間がかかるのだと思ったものだが、僕にはこれくらい時間がないと結果を受け入れる心の準備ができないんじゃないかと実感した。妻とちゃんと話そう。やっとそう思えたのは1週間以上経ってからだった。

 このとき、僕は乳がんについてあまり調べる気になれなかった。ただ、乳がんにもいろいろなタイプがあって、コントロールができるタイプとそうではないタチの悪いタイプがあることくらいはわかっていた。妻のほうはそれなりに調べているようだったが、どこまで頭に入っていたのかはわからない。他人事であれば熱心に調べ、対処法も考えるのだろうけど自分たちのこととなると、なかなかできることではないなと痛感した。

 2人で話し合ったのは、まだどうともいえない病気のことではなく、これからの方向性だ。もし、がんだった場合、4人の子供たちのためにとにかく少しでも長く生きることを優先すること。そのために一番確実性が高いと思われる方法を選ぶこと。つまり、部分切除よりも全摘術が良い場合は迷い無くすべての乳房を取ること。妻には僕も含めた家族のために病気と闘ってもらい、僕はそれを経済面で支えていく。そんなことを話したように思う。

「大丈夫。絶対、大丈夫だから」

 経済面で支える、というのは僕にとって一番の不安要素であったけれど、妻がもしがんであった場合、不安になったりストレスがかかるのが一番良くないだろうと、僕はとにかく「大丈夫」という言葉ばかり使っていた。

 後でわかったことだが、妻の腫瘍は11㎜の小さな部類のものだった。しかし、場所が悪かったのか痛みを訴えて伏せることが多くなっていた。精神的にもきつかったのかもしれない。息をするたびに痛みがあり、ときに息苦しくなるという。なぜ、こんな場所にできたんだろう、と妻は嘆いていたけれど、“こんな場所”だったからこそがん検診にもいかずに自分で気づくことができ、早期の段階で発見できたのだから、まさに不幸中の幸いといえるだろう。小さいわりに痛みの強い“できもの”に妻は苦しめられていたが、僕は今では運がよかったのかもしれないと面倒な“できもの”の発生場所に感謝さえしている。そもそも運がよければ乳がんになんてならなかったんだろうけども。


(『北方ジャーナル2017年11月号』掲載)

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