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前回(第8回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2018年5月号に掲載されたエッセイの9回目です。


第9回

人生、谷あり谷あり

 2017年7月に乳がんが見つかり、8月に妻は手術のために入院した。4人の子供たちはちょうど夏休み。当たり前のことだが昼食は毎日用意しなければならず、給食がこれほどありがたいものだと思ったことはなかった。


また、この時期には僕の両親の離婚が成立。このことには本当に精神的に追い詰められた。

8月下旬にはガンダムのプラモデルで有名になってしまった長女へのテレビ取材が自宅で行なわれたり、9月上旬には地元小樽市のコスプレイベントへの協力など、仕事や家事以外にもいろいろと忙しいことが重なった。


実のところ、これまでほとんどのテレビ取材は断ってきた。もうすでに何度か受けてきたし、テレビの取材というのはとにかくシンドイからだ。拘束時間が長く、せっかく撮っても9割がた使われないのが普通だし、ときにはボツというのも珍しくないのがテレビ取材。もちろん、取材後の制作会社の人たちによる編集作業のほうが時間がかかり大変なのだろうけど、僕らはいつもノーギャラで依頼されているのでそんな苦労は知ったことじゃない。有名になることで何か利益があるなら取材を受けるけれども、特段無いので基本は断ってきたのだ。


それなのにしかも今、この大変なときに取材を受けたのは、闘病中の妻、そして離婚したばかりの僕の母にとって娘の露出は大きな楽しみとなるから。少しでも良い話題になればと、妻が不在で散らかしっぱなしとなった我が家にテレビクルーを迎えるべく、数日かけて大掃除し、取材当日は8時間ほどの拘束時間に耐えた(放映時間は5分強)。


 少し話が逸れてしまったが8月はそんな感じで慌ただしく過ぎ、月末には妻が退院、9月下旬には放射線治療のために再び入院することになった。その直前、幼い頃から今に至るまで世話になりっぱなしだった母方の祖父が亡くなった。


 妻が乳がんになり、両親は離婚してこのとき僕の中で父は死んだ。そして今度は大好きだった祖父が本当に死んでしまった。人生山あり谷ありとはいうけれど、近頃は谷続きだ。人生の谷の中で、今回の谷はどれだけの深さなんだろう。人生のマリアナ海溝はこれくらいなのだろうか。いや、もっと深いのだろうか。斎場で、骨壷に入りきらない頑丈な祖父の骨を砕き入れながら、僕はそんなことをぼーっと考えていた。自分自身が病気になったり裏切られたりするような不幸だったらまだマシだったのかもしれないな、とも思った。自分が大切にしている人の不幸というものはやりきれず、切ないものだ。僕の4人の子供たちは今のところ特に大きな病気はしていない。今はそれだけが救いでありがたかった。


 10月末まで妻は放射線治療のため北海道大学病院に入院した。しかし、僕は前回の入院と違って毎日のように見舞いには行かなかった。そして、見舞いに行っても妻と話すことを極力避けていた。いわゆる“冷たい夫”にこの頃の僕は変わっていた。


がんになった妻と別れる夫の気持ち


「がん離婚」という言葉がある。パートナーにがんが見つかったことをきっかけに別れてしまうことで、奥さんががんになった場合に多いケースのようだ。日本の夫婦は3組に1組が離婚するという統計もあるようだから、がんが契機になって別れるのも仕方ないかなとも思う。しかし、それにしてもがんになった奥さんを捨てるように別れるってひどい話だなぁと思っていた。そう、「思っていた」のだ。今はがんになった妻との別れを選択する夫の心情が僕にはちょっとだけわかるような気がする。


 妻が乳がんであるとわかったとき、僕はパニックに陥りながらも「夫である自分がしっかり支えなければ」と必死になった。僕自身は医者ではないので病気は治せない。できることといえば、妻が療養に専念できるよう環境を整えることだけだ。つまり、経済的不安をなくすこと、家事、育児ということになる。最初の1、2カ月は火事場の馬鹿力で慣れないこともそれほど苦にはならないし、妻も外科手術を受けていかにも病人らしく弱っていたのでとにかく助けなければという気になっていた。しかし、がんの治療というのは長い。ホルモン剤の影響で、妻もなんとなくぐったりしていたり機嫌の悪い日が続く。家庭の中の空気はまるで長い梅雨のようで、僕の身体にはいつもカビが生えたように慢性疲労がつきまとう。そして、“経済的な不安の解消”という責務。言葉にするには実に簡単だが、それがわずかな期間に努力するだけでなんとかできるなら、僕はとっくに贅沢な暮らしができているはずだ。現実はなかなか思い通りにはいかず、経済的な問題にぶつかるたびに自分の不甲斐なさを直視しなければならなくなる。


「今日も洗濯ができなかった…。学校への教材費の納付も忘れてしまった、子供に悪いことしたな。あ、トイレットペーパーがきれた…」などと、家事というのは日々タスクが溜まっていく。これをすべて徹底的にこなしていくのは実は不可能だし、もし仮にすべての家事を毎日高いクオリティでこなしたとしても誰も評価してくれるものではない。だから、できる範囲で家事は“ほどほどに”こなして、自分を追い込まず笑顔で日々を過ごすのが家事の大切なポイントなのだが、サラリーマン生活の長い男というものはこれがなかなかわからない。僕は生真面目なほうでなかったからそれほど苦しまなかったけれど、真面目な人ほど「ああ、今日もあれができなかった…」と自分を追い込み苦しむことになるだろう。それはまるで育児ノイローゼで悩む若い母親のように。


 そして、人はたぶんもともと孤独なものでそのままでは寂しいから結婚という手段を経てパートナーと一緒になり、肉体的にも一つになるのだろうけど、病に苦しんでいるのはいつも妻だけだし、闘病中の妻に「夫婦生活」を強要することはできない。夫は孤独な自分、経済的にも家事においても妻を助けられない不甲斐ない自分を突きつけられ、いつしか「どうしてこんなに俺を苦しめるんだ!」と、妻の顔を見るたびに思うようになっていく…。


最初はパートナーを支えようと思っていたはずなのに、いつしかそれは憎しみに似た感情に変わるのかもしれない。そして、現実的に考えればむしろ離婚して妻が生活保護を受ければ、夫が妻を支えるよりもしっかりと社会保障で妻の病気は支えられるかもしれない。がん保険に入っていない若い夫婦であるなら、互いの愛情はともかく現実的な選択として離婚を選択しても仕方がないのかもしれない…。奥さんががんになって別れる夫の気持ちはそのようなものではないのかなと、僕は自分の妻が乳がんになってから想像するようになっていた。


(『北方ジャーナル2018年5月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2018年

前回(第7回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2018年4月号に掲載されたエッセイの8回目です。



第8回

治療は続くよいつまでも

 2017年8月末。「乳房部分切除術」を受けて入院していた妻が退院した。腫瘍を取り除かれた妻は手術翌日からすっきりした顔をしており、それはまさに憑き物が落ちたようでもあった。しかしそれはたぶん鎮静剤の類のおかげで、術後数日してからは苦虫を噛み潰したような顔をよくするようになった。手術の影響で胸に刺すような痛みが時折襲うのだという。


 おっぱいをまるごと切除する「乳房切除術」ではなく、腫瘍もごく小さい1㎝程度だったとはいえ、腫瘍周囲の正常な組織ごと取り除くので、胸に直径5㎝ほどの穴が空いたことになる。思えば“部分切除”といったって、乳房の大部分を切除してわずかに乳房が残った場合であっても“部分切除”である。言葉の印象とは実に怖いものだ。ともかく、胸にぽっかりと穴の空いた妻は手術からおよそ半月弱を「アイタタタタタ」とぼやきながら、腕を上げるリハビリをして過ごすことになる。胸の筋肉組織を削ったので突っ張りが生じてしまい、痛みを堪えながらでもリハビリをしないと腕が上がらなくなってしまうのだ。


 退院までの間に切除した腫瘍の検査も済み、今後の治療方針が病院から説明された。乳がんには比較的おとなしいものから増殖が活発なものまでいくつかの種類があり、再発のリスクや治療方法が変わってくる。薬物療法ではがん細胞が持つタンパク質を調べてその特徴によって5つの「サブタイプ」というものに分類される。そのサブタイプや病気の進行(ステージ)によってホルモン療法しかしなかったり、ホルモン療法と化学療法(抗がん剤)を併用したり、化学療法しかしなかったりと標準的な治療方法がガイドラインで示されている。このサブタイプは腫瘍の発見時と手術の前、術後と時間の経過で稀に変化することがあるので、術後に変化がなかったことを確認してから担当医の説明があった。


 妻のサブタイプは「ルミナルA」。ごく簡単にいうと、増殖力が低くてホルモン療法も効きやすい5つのタイプで最も予後の良さそうなサブタイプだった。担当医であるさっぽろ麻生乳腺甲状腺クリニックの亀田博院長は、万一のことがあるのではっきりと「よかったね」とは言わなかったものの、乳がんの中でも安心していい部類であることがその表情から読み取れた。次いでこれからの治療方針についても説明があった。術後ほどなくして他の医療機関で放射線治療を受けること、そして5年間のホルモン剤の服用などについてだった。


 妻の手術に際して「センチネルリンパ節生検」が行なわれたとき、亀田院長はセンチネルとは斥候(見張り番)のことだよ、と教えてくれた。まずこのセンチネルリンパ節ががん細胞の襲撃を受けるので、ここにがん細胞の襲撃の痕跡つまり転移がなければ他のリンパ節にも転移がないと考えることができるということだった。同じような考え方で、妻の乳がんの発見や治療の流れをテロリストとの戦いに置き換えて考えるとこうなる。


 定期的な取り締まり(がん検診)ではなく、噂話(自己検診)でテロ組織(がん細胞)が活動しているのがわかった。聴き込み(エコー検査やマンモグラフィーなど)や潜入捜査(生検)によるとどうやらまだ組織は立ち上がったばかりらしい(ステージⅠ)。早いうちに悪の芽を摘み取ろうとテロ組織の本部にミサイルを投下(乳房部分切除術)、近隣住民に若干の被害が出たがそれはまあ仕方ない(手術の副作用)。念のため支部になりそうなところも特殊部隊を投入して建物を破壊(センチネルリンパ節生検)。しかし、そこにはテロ組織の痕跡すらなかったから今後しばらくはテロに苦しむことはないだろう。しかし本部を叩いたからといって本当にすべてのテロリストを殲滅できたかどうかは疑わしい。よし、この街全体を空爆しよう(放射線治療)。この空爆は街全体を焼け野原にするほどの威力はないけれど、本部の破壊から逃れたテロリストを仕留めることはできるだろう。でも、やはりまだ不安だ。テロの思想を広めないために少なくとも5年間は情報統制(ホルモン療法)を敷こう。これで完璧な平和が訪れるはずだーー。


 なんともしょうもない例えだが、イメージとしてはわりと間違っていない例えでもあると思う。がん治療とはこんな調子で徹底的に敵を殲滅するように戦略立てて行なわれる治療だ。近隣住民である正常組織の多少の犠牲にかまっていられないし、社会全体が息苦しくなっても国家が崩壊するよりはマシ、つまりは多少具合が悪くても死ぬよりはマシということで結構な期間の我慢を強いられる治療なのである。


 妻は8月末に退院し、放射線治療を受けるのには通院は不便で体力的にもツライので北海道大学病院に9月下旬から10月末まで入院して放射線治療を受けることになった。入院期間中に計20回の放射線の照射を受け、乳房組織内に残っているかもしれない微小ながん細胞を根絶やしにする治療だが、この治療によって妻の胸の片方はまるで日焼けしたようになり、表面の皮膚が一部荒れていた。ごく初期の乳がん患者でさえこの様子なら「がんと闘わない」と治療を受けないがん患者がいるのもうなずける気がした。


 放射線治療が終って退院してからはいよいよ本格的にホルモン療法の開始である。ホルモン療法といっても薬を飲んで数カ月に一度注射を受けるだけなのだが、その“だけ”というのが実にクセモノだ。妻が5年間毎日飲み続けなければならないのは、乳がんのホルモン療法ではごく一般的な治療薬である抗エストロゲン剤。


 これは乳がんの増殖を促すエストロゲンが乳がん細胞に近づかないようにする薬で、再発するリスクが半分近くに減る有効な治療薬だが、その副作用が妻にとってはかなりの負担だ。急なほてりや発汗などいわゆる更年期障害に似た副作用が出るのだが、それがいつでも出てるわけじゃなく昨日はほとんど症状が出なくて調子よかったけれども今日はかなりツライなどと、症状の出方が実に不安定。これじゃあまともに働けないんじゃないかと今でも不安になっている。


 もう一つの治療が卵巣機能を抑制する皮下注射だ。これは最初は1カ月毎で、慣れてくれば3カ月毎、6カ月毎に打てるようになる注射で2年間続けなくてはならない。乳がん細胞の増殖に必要なエストロゲンは閉経前、卵巣で作られるが、その卵巣の機能を抑制してエストロゲンそのものがあまり作られないように打たれるのがこの注射だ。その副作用は頭痛や肩こり、不眠、うつ症状などがある。あとこれは副作用とはいえないが卵巣機能を抑制するので生理が止まる。当然のことながらホルモン療法を受けている間は妊娠することができない。


 乳がんは30〜40代の発症が増えているし、出産の高齢化が進んでいるのでこれは厄介な問題だなぁと思っていたら我が家でもこれは他人事ではなかったようで「弟や妹が作れなくなっちゃった、ごめんね」と末娘に語り泣いて抱き合う母娘の姿が…。どうやら妻は本気で5人目の子が欲しかったらしい。


 いやいやいや、お気持ちはわかりますけど甲斐性なしの僕には4人の子の教育費だけでも絶望的でして、これ以上は本当に責任持てません。いや、その前にこのホルモン療法というのが結構財布に痛いものでして、高額医療制度を利用しても年間10万円以上の出費になるし、僕らが加入しているがん保険も適用されません。妻はもう新たにがん保険に入れませんが、これから保険加入を検討している方は本当によく検討したほうがいいです。がんが見つかったらまずまともに働けません。そして手術以外にも長い期間治療が続いてお金がかかります。僕のように妻の収入にも寄りかかっている旦那さんは特に奥様の保険、見直したほうがいいですよ、ホント。

(『北方ジャーナル2018年4月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2018年

前回(第6回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2018年3月号に掲載されたエッセイの7回目です。


第7回

乳房部分切除術


 2017年8月16日。さっぽろ麻生乳腺甲状腺クリニックで妻の外科手術が行なわれた。手術の名前は「乳房部分切除術」。おっぱいをまるごと切除する「乳房切除術」ではなく、腫瘍のみを取り除く手術だ。手術当日は長女が風邪をひいてしまい、下の兄妹3人だけを連れて付き添うことに。僕らにできることなど具体的には何もないのだが、家族や親しい人間が手術の際に身近にいることは、いざというときに役立つということを僕は経験している。


 長男の出産のときのことだ。朝5時にツルンと産まれて良かった良かったと長女を連れて自宅に帰って眠ろうとした途端、病院から電話が入った。


「産後の出血が止まらず意識が戻りません。奥さんの親御さんにも連絡を取ってすぐに来てください」


 親族を集めるということは危篤状態ということ。慌てた僕は指示通りに義父に連絡を取り病院に向かった。駆けつけたときの妻に意識はなく、心拍数も下がり続けていた。看護師たちがいくら声をかけても応答しないという。


「起きて、ねえ、起きてよ」


 いつもと変わらない感じで寝ている妻を起こすように呼びかけても応じない。僕は意を決して妻に平手打ちをして叫んだ。


「おい! 起きてよ!! 子供たちどうすんの! 一人にしないでよ!」


 そこで初めて妻の目や口が動き、混濁しながらも意識が戻った。そこから心拍数が戻るのにも時間を要しなかった。助産師がホッとしながら僕に言った。


「やはり私たちじゃ意識は戻せなかったんですね。ご主人じゃなきゃ危ないところでした。医学だけでは説明できない人間の不思議なところです」


 しばらく経ってこのときのことを妻は、

「パーッと視界が白くなって気持ちよくなって楽な世界に行こうとしていたら、なんだか呼ばれて戻らないとなぁと思って。そしたら急に苦しい世界になった…」と振り返っていた。良かった。殴ったことはバレていないようである。


 話が逸れてしまったが、ともかく傍にいることの大切さを実感しているので万が一のときのために手術日は長い時間付き添うことにした。


 手術前、妻はリラックスした状態でそのときを待っていた。落ち着きがないのは子供たちのほうである。妻を疲れさせてはいけないと気を遣いながらもソワソワして病室をウロウロしたり妻に甘えたり…。妻が手術室に入ってからは遠慮する必要がなくなったからか、


「大丈夫だよね? お母さん、大丈夫だよね?」

 と、僕に不安をぶつけてきた。


「できものをちょろっと切って取るだけだから大丈夫だよ。なーんも心配いらない」と答えて、手術中は子供らを近くの公園へと連れ出した。


 我が家は子供が4人いるので、父親である僕が子供らと遊ぶことは実はほとんどない。子供同士で遊んでくれるからだ。ただ、この日は珍しく子供らと公園で缶蹴りをして遊んだ。数年ぶりに僕は全力で駆け回った。


 手術後、妻は麻酔でぼーっとしながらも子供らに笑顔を見せていた。しばらくして執刀医の亀田博院長から説明があった。妻の腫瘍の大きさは12㎜。「センチネルリンパ節生検」によってリンパ節への転移がないことがわかり、ステージとしてはⅠ期であることが説明された。


 乳がんのがん細胞が最初に転移するわきの下のリンパ節というものがあり、これを「センチネルリンパ節」というそうだ。センチネルとは斥候、見張り番のこと。まずここががん細胞の襲撃を受けるので、ここに襲撃の後つまりは転移がなければ他のリンパ節にも転移がないと考えることができ、センチネルリンパ節以外のリンパ節を取り除く手術を省略しても再発率に影響がないことがわかっている。妻の場合、わきの下をちょっと切ってリンパ節のひとつだけを切除するだけで済んだということだ。


 一通り説明した後、亀田院長はおもむろにホルマリン漬けの組織が入った小瓶を取り出して話し出した。


「切除した組織を息子さんが見たいということだったので用意したけど…息子さんは?」


 そうだ。長男がどうしてもがん細胞を見たいというので妻からお願いしていたのだった。病室にいる息子を呼び出し、小瓶から取り出した組織を眺めさせる。


「がん細胞といってもその周りの組織ごと取るからなかなか見えないんだけどね。そう、この辺りにあるんだよ」


 ピンセットでこねくり回しながら息子に説明する亀田院長。一言も話さず聞き入り、じっと見つめる息子。写真を撮ったが、掲載するのが憚られるくらいにグロテスクなものだったから息子もショックを受けたのだろうか。このときは何かを考えているようで押し黙っていたので後日に感想を訊いてみた。


「がん細胞って見たことないから見たかったの。転移するっていうから液状だと思ったけど固体だった。見れて良かった。勉強になったよ」


「それだけ?」


「うん、それだけ」


 母を苦しめたがん細胞を確かめたいとか、そういう気持ちは一切なく、ただ単純に興味があったから見たいとせがんだのだという。我が子ながら変わった子だ。


 ただ、息子のおかげで組織を僕も見たことは結果的に良かったと思っている。腫瘍のみを取るという乳房部分切除術といっても、腫瘍から1㎝程度離れた正常な組織も取り除くので最終的には直径約5㎝の球体状の組織がえぐり取られることを、自分の目で見て理解することができたからだ。


 術後、妻は腕がうまく上がらなかったり、疼痛に苦しむことになった。そんなときも「あれだけの組織を取ったのだから仕方ないよな」と妻の気持ちに寄り添いリハビリに協力しようという気になれたのは、好奇心の強い息子のおかげで僕も見ることになったあの小瓶のおかげなのである。


(『北方ジャーナル2018年2月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2018年

最近、末娘のみも(8)が「ガンダムおしえて」とうるさい。


ちょっとでも僕の暇を見つけては「今日はガンダムできる?」とうるさい。


ようするに、模型を教えて欲しいと言ってきているのです。


模型なら姉や兄に教えてもらえるだろうけど、姉はおっかないし、兄は何を言っているのか大人でもよくわからない。


だから僕に言ってくるのか、それともただ一緒に父親と遊びたいだけなのか。


時間がないわけじゃないけど、「よーし教えてやるか」とすぐにはならないのが我が家流です。


長女のめいのときもそうでした。

突き放しても突き放しても、全然諦めなかったんで、根負けしたというか見込みがあるかもなと教えました。


突き放しが効いたのか、バネはよく縮んでいたようでよく飛びました。人の話をよく聞いて、人の手元や完成品をよく見ていました。


何事も準備は大事。


いまは弓をぎゅーっと引きしぼる時間だということで、末娘みもの「ガンダムおしえて」には応えません。


お父さんはモンハンをやり続けて無視するのです。

突き放すのです。


それでもまだ「模型がもっとうまくなりたいから近道教えろや!」ってなっていたら、「近道なんてないんだぞ、ばーかばーか」って教えてやろうと思います。


そもそも上手い下手なんて尺度はそぐわない分野なんですけどね。

知ってたらもっと模型が面白くなる。そんな考え方や作品の見方、基礎技術を子供達には伝えたいと思っています。

前回(第5回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2018年2月号に掲載されたエッセイの6回目です。


第6回

 乳がんが告知され、手術を2週間後に控えた8月初め、妻の医療保険にがん特約を3年前に付けたばかりだったことに気づき担当者に連絡をとった。担当者であるソニー生命の高橋さんは申請に必要な書類を持って早速駆けつけてくれた。今後の治療スケジュールからおおよその保険金を予測すると、治療費を差し引いても妻の収入の半年分は手元に残るだろうということがわかった。このときの安堵感は、まるで命が助かったと思うくらいにとても大きなものだった。まだ治療はこれからなのだけれども、がん患者とその家族にとって、経済的な不安を感じずに治療に専念できるというのはそれほど大きなものなのだと実感した。

「保険に入るというのは自分の生活を守ると思われる方が多いんですけど、実はそれだけじゃないんです。ご自身の親兄弟の生活を守るためでもあるんじゃないかと僕は感じています。大きな病気をすると治療のために働けなくなりますから、治療費や生活費といった問題に直面します。保険に入っていないと、どうしても身内に頼らざるを得ませんよね。保険に入っていれば身内に借金をしないで済みますから、結局のところ家族を守るということになるんです」

 高橋さんのこの言葉も僕の心によく響いた。先般、僕の両親は離婚を決めたばかり。いくらお金に困っていても独りとなった母に無心するわけにはいかなかった。妻にとっても安心感は強かったようだ。この頃の妻はなにかにつけ謝ることが多かった。家事を代わりにやっても、病院の支払いのときも「ごめんね」と僕に謝ってばかりだった。体調が悪く思い通りに動けないことや、入院に先立って勤めていたパートを辞めることになり収入が無くなったことも負い目に感じているようだった。自分の存在が僕や家族の重荷になっているのではないかと恐れているようにもみえた。

「入院すれば1日1万円の給付があるよ。日給1万円だ。手術も給付金が下りるからこれはがんばったボーナスだね。出稼ぎだと思ってがんばって!」

 そう茶化して僕は妻を励ました。

 保険金で食べていく。字面だけみると実に不謹慎だ。でも、がん保険による給付金は、妻の治療費だけではなく僕らの生活を実際に支えることになる。妻はけっして重荷ではなく、あなたのおかげで家族が食べていけるんだ、自信を持ってほしいと僕は伝えたかったのだ。

妻不在の喪失感を埋めるために

 いくつかの検査を経て8月中旬、妻は手術のため入院した。退院予定日は8月末。2週間ちょっと家に妻がいない生活を送ることになった。4人の子供たちは夏休みの真っ最中。当然のことながら学校の給食がないので毎日昼食の用意をしなければならない。妻不在の家で、である。この状況、普通のサラリーマンで家事が不得意な夫であったらまさに絶望的な状況であっただろうなと容易に想像できた。

 しかし、この点で我が家は実に恵まれていた。僕はいわゆる一般的なサラリーマンではないので家に居ることができたし、家事も得意なほうなので普段から毎日の夕食は僕がほとんど作ってきた。しかも隣家は妻の実家なので困ったことがあればすぐに頼ることができたし、義母は毎日のように夕食の一品、あるいは全部を作ってくれた。

 妻の入院は初めてではない。4人も子供がいるのだから、これまでその出産のたびに入院してきたし、妻不在期間の仕事と家事の両立がいかに大変なものかも身に沁みてわかっている。だから大丈夫。そう思っていたが、今回ばかりは様子が違ったようだ。出産による不在とがん治療による不在。妻が家にいないということは変わらないのだけれども、不在の理由が異なるだけでこれほど違うのかと思い知った。

 子供たちはいつも明るく振舞っていたけれども、妻の不在に明らかに動揺していた。末娘はまだ7歳。小学生になったとはいえ、まだまだ甘えたい盛りだ。それに末娘は母親がいない家で眠りについたことがこれまで一度もない。妻と半月の間、離れて暮らすということだけでも末娘には大きな出来事だった。出産による入院であったら、入院期間中は家事が大変で寂しいというだけだったろう。退院してきたら新たな家族が増えるという希望もあったろう。だけども、今回はがんの治療のための入院である。退院してもすぐに完治といえる病気ではないし、子供たちには母親の喪失感と不安だけが重くのしかかっているように見えた。

 そんな子供たちの動揺を見て僕は妻の入院期間中も家になるべく居ようと思った。当初は妻の分も働こうと時間を作って現在の仕事以外にアルバイトもしようと考えていたのだ。しかし、当面は保険の給付金で食いつなぐことはできるし、毎日子供らを連れて見舞いに行くことで妻も子供たちも安心できるのではないか、今回の入院が子供たちの心に暗い翳を落とすことにならないのではないかと考え直したのだ。そして、どうせ家にいるのなら子供たちの様子を動画に収めてユーチューブにアップし、入院中の妻に届けようということも考えた。それが再生数を稼ぐことになったら新たな収入になって妻の経済的な不安も少なくなるという微かな希望もあったけれど、自宅に居ながらやれることはなんでもやらなければという焦燥感が僕にはあった。何かしていなければ落ち着かない。今にして思えば、妻不在の喪失感は僕にも襲いかかっていたようだった。

 8月の夏休みといえば、我が家の子供たちは毎年プラモデルの制作で家に籠るというのが恒例行事だ。かなり変わっている夏休みだが、長女のめいはガンダムのプラモデル「ガンプラ」のワールドカップのジュニア部門で日本大会を5連覇しており、長男の柾は模型誌の『ホビージャパン』が毎年開催している全国コンテストのジュニア部門で3連覇を果たしている。両コンテストの締め切りは同じで9月1日。そのため、8月は追い込みでいつもプラモ作りばかりしているのだ。長女のめいはテレビや新聞などにも出ているし、ユーチューブが収入源になることはまったくの夢物語ではないかもしれない。そんな希望を持って僕は慣れない動画編集に四苦八苦しながらも夜な夜なパソコンに向かった。

 子供たちもガンプラに一所懸命向き合うことで母親の不在を少しまぎらわすことができたようだった。特に長女のめいの制作姿勢には鬼気迫るものさえ感じられた。妻の入院を控え、当初は僕も今回ばかりは制作を諦めるよう勧めた。めいの場合は他の子よりも没頭の度合いが強く、制作時間も長いので妻のいない当時の環境ではとても締め切りに間に合わないように思えたし、満足のいかない作品が出来上がったときに妻が責任を感じることが僕は怖かったのだ。しかし、めいは諦めず、弟たちの面倒や家事をよく手伝いながらも机に向かったときはまさに鬼気迫る集中力で作業をこなしていた。前年に初めて日本代表を逃していたが、そのリベンジというよりも母親が大変な思いをしている今だからこそ絶対に世界一を獲るんだという強い信念を感じた。

「でも、作っているうちにそんなことは全部忘れて、作っていることがただただ楽しくて作品に救われたんだけどね」

 めいが後になってそう話していたように、模型に向き合うことは子供らの不安を和らげ、その姿は入院中の妻を元気付けることにもなった。そういう意味で僕の動画編集は一定の成果を得た。が、残念なことがただひとつ。現在になってもいまだに1円の収入にさえなっていない。


(『北方ジャーナル2018年2月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2018年

前回(第4回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2018年1月号に掲載されたエッセイの5回目です。


第5回


 自分への怒りを娘に八つ当たりし、罪悪感やら虚無感やらよくわからない感覚に囚われた僕は子供たちを寝かせた後、ふらふらと風呂場へ向かった。シャワーを浴びていると止めどもなく涙が溢れてきた。嗚咽を隠すように僕は長い間シャワーを浴び続けていた。

 少し落ち着きを取り戻し、風呂上がりに台所で水を一杯飲んで喉を潤す。

「大丈夫?」

 いつの間にか妻が台所に来ていて心配そうに僕を覗き込んでいた。突然の登場にびっくりしたことは間違いないけれども、僕は自分の鬱屈した気分を隠すように大げさに驚いてみせた。

「びっくりしたぁ! 大丈夫なの? 寝てた方がいいんじゃない?」

 妻は微笑んで続ける。

「ごめんね、急に苦しくなっちゃって…。それにしても、あの子も仕方のない子なんだから」

 がん患者に心配され、謝られ、我ながら本当にどうしようもないヤツだと思う。僕というヤツは。

「いや、ごめん。怒鳴ったりして。がんにはストレスが一番良くないよね。一番良くないことを僕がやるなんてね…」

 言っている途中で自分が心底情けなくなって涙がこぼれてきた。ダメだ、こんなときに僕が泣いてどうするんだと堪えていたら妻が僕の肩を抱いて慰めた。

「あなたはいつも大事なことを我慢しすぎだよ。実家のことも大変なときにちゃんと悲しませてあげられなくてごめんね。泣けるならちゃんと泣いたほうがいい」

 その夜、僕はしばらく泣き続けた。妻の前で涙を見せるなんて結婚以来初めてのことだったように思う。そしてその涙は情けなさからくるものじゃなく、いつの間にか妻ががんになったことへの悲しさを表す涙へとなっていた。ここにきてようやく僕は妻のおかげで素直に悲しむことができた。

悲しんだ後は金勘定ばかり

 妻を支えるためにしっかりしなくては、と気張ってばかりいたけれど、順序が逆だったのかもしれない。泣くことで僕は自分の気持ちに向き合うことができ、翌朝からは空回りせずわりと冷静に物事を考えられるようになっていた。

 何はともあれ不安をひとつひとつ整理して片付けられるものから手をつけていこう。手術を約2週間後に控えていた7月下旬、妻の体調も不安定だったので勤めていたパートを辞めるよう勧めた。我が家の家計は妻のパートに頼る部分が大きかったので簡単に辞められるものではなかったけれど、今はとにかく治すことに集中してもらおうと思ったし、妻の体調を見ても働くことは実質不可能なことのように思えたのだ。

 共働きでやりくりしていた家計が片肺飛行になり、今後の生活を僕一人でなんとかしなければならなくなったわけだけれど、その前にまず解決しなければならない問題があった。来月の手術と入院費用の工面だ。4人の子供がいて僕らも40代になっていたけれど、恥ずかしながら僕らには貯金というものがまったくなかった。恥ずかしながら、とは言ったものの世帯年収は300万円以下なので、借金をせずに日々を過ごしていくのが僕には精一杯だった。

 入院費がいったい幾らになるのか不安だったが、健康保険には「高額療養費制度」というものがある。入院などで医療費が高額になった場合に収入に合わせて一定の金額(自己負担限度額)を超えた部分が払い戻される制度だ。今回は高額になることが事前にわかっているので「限度額適用認定証」を申請しておけば、払い戻しを待つことなく最初から限度額だけを払えば済む。我が家の自己負担限度額の区分は一番低い「区分オ」(被保険者が市区町村民税の非課税者等)で限度額は3万5400円。ちなみに、入院時の食事代や病衣代は自由診療扱いになり高額療養費制度が適用されない。入院先の病院に今回の入院で幾ら必要なのかを問い合わせると、我が家の自己負担限度額に食事代などを合わせると5万円超の支払いになるということだった。

「高額療養費制度のおかげで助かった。ありがとう…。国民皆保険制度のある国に生まれて良かった」

 もちろんそう思うのだが、ありがとうと感謝してばかりもいられない。入院費が10万円だろうが100万円だろうが、負担額が5万円程度というのは実に助かる。すごく助かる。しかし、である。この入院ですべての治療が終わるわけではない。その後も放射線治療、抗がん剤やホルモン剤による治療が待っている。少なくとも5年は続くそうだ。のちに知ることになるのだが、ホルモン剤の注射の自己負担額はかなりの高額である。毎月射つとなると1回3万円以上する薬なのだ(半年に一回の製剤にすると体への負担は大きいが幾分安くなる)。高額療養費制度のおかげで自己負担額は月に高くても5万円程度に抑えられそうなことはわかったが、決してそれは我が家の家計が救われたということではなかった。妻が働けなくなった上に新車のローンを1台分抱えたようなものだった。

 なんとかして僕一人で我が家の家計を切り盛りしつつ、さらに車一台分のローンくらいの負担を払えるようにしなくては…。どうやったらお金を稼ぐことができるだろう、う〜む…。と、眉間にシワを寄せて無い知恵を絞ろうとしていたら、妻がハッと気がついたように言った。

「そういえばわたし、がん保険に入れてもらったよね」

 僕らは3年ほど前に保険を見直したばかりだった。長女が生まれたときだから、僕は14年ほど前から同じ保険会社の生命保険と医療保険に入っていた。加入当初の担当者は僕らのライフプランを親身に考えてくれて、無理なく最低限の保障を考えてくれていた。その担当者が変わることになったのは3年ほど前。がんに斃れてしまったのだ。後任の担当者が挨拶に訪れたとき、ちょうど妻も資格を取って働き始めていたので妻の保険を見直すことにしたのだ。妻は家族歴や生活習慣から見てもがんのリスクは低いように思えたが、がんで亡くなった前任者が後押ししてくれたのかもしれない。妻の反対をよそに僕は妻の保険にがん特約をつけることにしたのだった。

 僕の記憶は曖昧だったが、妻は保険料振込のたびに「また保険代が無駄になった」と思っていたのだという。どんな保険だったのか、本当に加入していたのかも忘れていたので慌てて証書を引っ張り出してみた。たしかにがん特約に入っていた。死亡後の保障というよりも治療を支える医療保険に近い特約を選択していたようだ。ともあれ、これで入院費は工面できるし、その後の生活も半年はなんとかなりそうだった。

「すごいな、3年前の自分!」

「えらい! えらい!」

 保険の証書を二人で眺めながら、久しぶりに夫婦で心から笑ったような気がした。


(『北方ジャーナル2018年1月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2018年

前回(第3回)記事はこちら。

『北方ジャーナル』2017年12月号に掲載されたエッセイの4回目です。


第4回


告知

2017年7月14日、妻の診断が確定した。

「乳がんです」

 札幌市にある麻生乳腺甲状腺クリニックの診察室で、亀田博院長はパソコンのディスプレイに目をやりながら淡々と話した。それはまるでコンビニの店員が、

「420円です」と会計を言うのと同じような口調だった。人生を左右するような大事なことをそんな事務的に話すのはいかがなものだろうと思う人もいるかもしれないが、僕は院長のそんな口調に救われた。テレビドラマのよくある台詞のように、

「実は…残念ながら…がんです…」などと、じっくりと熱く語られてしまっていたらかえって混乱の度を強くしていただろうと思う。

 亀田院長は告知の後、丁寧に妻のがんがどういったものであるかを説明した。しかし、このときの僕らは院長が何を説明しているのかまったく頭に入っていなかったように思う。がんの告知とは、される側にとってそれほどのインパクトがあるものだった。

「五分五分とは聞いていたけど、やはり悪いほうだったか…。どうするんだこれから。4人の子供らになんて言えばいいんだ。そうだ、一番大変なのは妻だ。こんなときこそ男であり夫である僕がしっかりしなければ。…しっかりしなければ」

 そんな考えが頭の中をぐるぐると駆け巡るだけで、院長の話はさっぱり耳に入っていなかった。

「…ということなんですが、わからないことありますか?」

 院長がそう尋ねてきてハッと我に帰る。院長の表情を見ると、まるで自分の話が届いてないことを悟っているようだった。

「あの、えーっと…、部分切除じゃなくて乳房を全部取ってしまったほうがいいんじゃないでしょうか…」

 僕はかろうじて部分切除で手術をするということだけは聞こえていたので、全摘術のほうが予後がいいのではないかと訊いた。妻は押し黙ったままで僕はその顔を見ることはできなかった。

「すべてを取ってしまうというのは、みなさんが思っている以上に見た目が変わります。見られることが恥ずかしいというより、見る人がびっくりするだろうからと温泉に行くことを控える患者さんもいるくらいなんです。今は乳房の再建術も進歩していますが…」

 案の定、見た目の心配をされたので僕もすかさず切り返す。

「いや、この際、見た目はどうだっていいんです。万が一乳がんだったときは、見た目は気にせずに生き残るのに一番いい方法を取ろうと妻とも話してきました」

 まくしたてる僕に、院長はまあ落ち着いてという表情をしながらゆっくり話し始めた。

「奥さんのがんの進行や転移の状況はこれからもっと詳しい検査をしますけど、現段階では部分切除でも全摘術でも予後は変わりません。それなら部分切除がいいでしょう、ということなんです」

 それからは今後のスケジュールが説明された。手術日は翌8月16日、その前に3度の検査が予定されたが、そのうちの1つである乳房造影MRIは妻が喘息持ちのために中止にした。術後はホルモン剤による治療がかなり長い期間行なわれるという。

「生理はまだありますか?」との院長の質問に、

「あります!」と妻ではなくなぜか僕が素っ頓狂な声で答えてしまい恥ずかしかったのだけれど、こんなときにいつも笑ってくれる妻は俯いたままだった。

死を意識して発する言葉

 14歳の長女はいわゆる“難しいお年頃”だ。小さな頃から聞き分けのいい子で、はたして反抗期がくるのだろうかと心配していたのだが、中学生になってみるとそれなりの反抗はあるようで妻とよく小競り合いをしていた。ある日、何か物を置きっ放しにしていたとかだったと思うが、生活の中での些細なことで妻が長女に注意していた。いつものごとく、長女は返事だけをしてスタスタと2階へ行こうとしていた。

「都合が悪くなったらすぐいなくなろうとする。あなたにちゃんとした大人になってほしいから伝えているのに。いつまでも一緒にいられるとは限らないんだよ」

 妻のそんなぼやきを聞いて僕はハッとした。妻が乳がんでなかったらなんてことない愚痴だったはずだ。

「いつまでも一緒にいられるとは限らない」

 そんな当たり前のことが現実味を持って彼女の口から発せられたかのように感じた。

 僕は以前、仕事で医療系の記事を書きながらこんなことを言っていたことをふと思い出した。

「がんという病気は悪い病気じゃない。だって、人生を終える準備ができるんだもの。突然死に比べたら良い病気なんじゃないか」

 この頃の僕は家族のために仕事をし、どこか一人前になったような気がしていた。しかし、まるでわかっていなかった。なにかわかっているような気がしているだけだった。なにが「人生を終える準備ができる」だ。お前になにがわかるというのだ。死ぬかもしれないという現実を受け止め、次の世代になにか伝えようとする妻の姿を見て、僕は若かった自分を殴ってやりたかった。

 僕は部屋に引きこもろうとする長女を追いかけ、

「母さんが注意しているのに、なんだその態度は! 母さんがどんな気持ちでお前に注意しているのかわかっているのか!」と大声で怒鳴り、きつく叱った。ひとしきり説教した後、妻を探すと寝室で彼女は伏せていた。付き添っていた次男が言うには、胸の痛みを訴えて動けなくなったらしい。長女が自分のせいだと思ったようで妻に「ごめんなさい」と繰り返し謝まっている。

「いや、僕のせいだ…」

 僕は自分の未熟さへの怒りを娘にぶつけてしまった。大声で怒鳴り散らして八つ当たりしただけではないか。それが妻のストレスとなったのではないか。妻を支えなければならない僕がなにをやっているのか。先般、両親の離婚で僕は父と絶縁した。父が僕にしてくれたように、僕は自分の子供を育てようとしてきた。しかし、今になって父の存在を否定することはこれまでの僕の子育てを否定することにもつながった。僕は模倣すべき父親像を失っていたのだ。妻も子供も支えられぬ自分が小さく、とても小さくなっていくような感覚に僕は囚われていた。


(『北方ジャーナル2017年12月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2017年

前回記事はこちら。

北方ジャーナル』2016年7月号に掲載されたコラム『根掛かり人生 ~今日も地球を釣っています…~』の第3回です。


Vol.3

魚を知り己を知れば
百釣危うからず…?

「外道」=「悪」ではないのよ

 昨年(2015年)夏のことです。釣りを始めて1カ月ほどの頃、僕ら親子は覚えたてのサビキ釣りでチカ釣りを楽しんでいました。チカのシーズンは3〜6月くらいのようですが、日によってムラはあるものの夏の終りまで楽しめます。

「今日はチカが寄ってきてくれないなぁ…」って日もわりとあるのだけど、そんなときでも「外道」のウグイがヒットして、わりと強い引きで暇つぶしをさせてくれるし、北海道の夏の海は心地よい潮風が吹いてて、釣れても釣れなくても海にいるだけで気分がいいもんです。

 ところで「外道」とは、もともと狙っていなかったけど釣れてしまった魚のこと。子供たちと釣りをしていると実にさまざまな外道がかかります。当初釣ろうとしていた魚の反応がなかなか無いと、子供って飽きちゃうんですよね。すぐに自己流の釣りを展開して変な物を釣るから見ているとこれがなかなか面白い。ウチの次男坊はチカ釣りでデビューして初めて釣った魚がなぜか外道のカレイだったし、長男坊はヒトデをよく釣ります。いつだったか「うわぁ!大物だぁー!」と竿をしならせて、でっかいウミウシを釣り上げてギャラリーを笑わせたこともあったっけ。

 彼らとは違い、娘の場合は嬉しい外道が多いかもしれません。いつものようにチカ釣りをしていたある日のこと、ウグイ以外の外道が娘のサビキにかかりました。

「な、なにこれ? ドジョウ??? キモッ!……でも、よく見ると可愛いかも(笑)」

 どうやら、サビキ仕掛けを一度底まで落としたときにパクリと食いついてきたらしいその魚は、僕もいったい何であるかわからなかったけれども、毒魚ではないようでしたし、めんどくさいからチカと一緒に天ぷらにして食べてみたんです。

……んまーい!

 予想外の美味さに驚いた僕は本などを漁ってこの魚が「ハゼ」であることを知ったのでした。

万人に愛されるハゼ釣り

 このハゼ、釣りとしてはイージーな部類に入り老若男女問わず誰でも釣れるし、数を釣ろうと思ったら奥の深さもあるターゲットです。そしてなにより、美味しいのにお魚屋さんではまずお目にかかれない魚。これから釣りを始めるという人がいるなら、ぜひオススメしたい釣りです。

 ハゼ釣りの仕掛けはどこの釣具店でもセットで売っているのでまずはそれを買って仕組みを覚えておくといいでしょう。ちょっと慣れると自分でも簡単に作れるようになります。

 餌はイソメがポピュラーですが、僕は気持ち悪いし齧ってきて腹立つしでいまだに苦手です。でも、イソメ型の疑似餌も今では売っているし、魚を短冊上に小さく切っても餌になるし、エビでも釣れます。はっきり言ってなんでも釣れるんじゃないかなと思うときがあるくらい、ハゼは好奇心も食欲も旺盛です(笑)。

魚の気持ちになってみる

 どんな仕掛けでどんな餌ならよく釣れるのか。釣具店の店員さんに訊けば丁寧に教えてくれます。でも、実はもっと大事なことがあることをハゼは僕に教えてくれました。たまたま外道として釣れて、しかもやたら美味かった〝謎の魚〟を知りたくてこのときの僕はネットやら図鑑でハゼの生態を調べてみたんです。

 ハゼは砂や泥を好み、泳ぎがそれほど得意ではないこともあって上・中層に浮いてくることはまずなく、底あたりをウロウロして身体のわりには大きな口で虫や小魚を丸呑みして過ごしているようです。寿命は1年ほど。春に岸寄りして産卵して多くはその命を終え、産まれた幼魚は浅場で秋口までプランクトンや虫などを食べて成長し、冬になると沖の方へ移動していきます。釣りで一般的に狙うのは夏から秋にかけてほどよく大きくなった個体です。

 魚のことを知ると、どうやって釣ればいいのかが見えてきます。まず水深はそれほど深い場所でなくてもよく、泥か砂の底に仕掛けを落としてずるずると引くか、たまにストップしたりチョンチョンと浮かせて好奇心を煽れば食いついてくるはず。泳ぎもあまり得意ではないから、満潮に向かう時間帯、つまり上げ潮のときに潮に乗って足下に寄ってくるんじゃないか──。

 そうなると釣り方としてはいわゆる「ちょい投げ」釣り。ちょい投げとはその名の通り5g程度の比較的軽いオモリをつけて足下からせいぜい20m先までをちょいっと投げる釣りのこと。竿を持つとニンゲンというのはできるだけ遠くに仕掛けを投げたくなる生き物ですが、いきなり上手く投げられるはずもないし周囲に人がいるとかなり危険です。狙ったところに仕掛けを落とす、というキャストの基礎を学ぶ練習としてもちょい投げはかなり有効です。

「ねーねー! 今の見たー!? すごく遠くまで飛ばせるようになった!」

 我が子らも竿を持って投げる釣りとなると、どこまで遠くに飛ばせるかと競争を始めるんですが、沖のほうに飛ばせたからといってハゼが釣れるわけではありません。

「ぜんぜん遠くに投げれなーい」と、いじけ気味の次男坊にハゼという魚がどんな魚なのかを話したら、

「そしたら遠くじゃなくて近くにいるかもしれないね!」と、自分の足下にポチャンと仕掛けを落とす次男坊。そして仕掛けをちょいちょいとたまに動かしています。いくらなんでもそんな近くにいないでしょ、と思っていた矢先、

「釣ったどー!」との雄叫び。その後もキャストすることはほとんどなく彼の足下から次々とハゼを釣り上げていくのでした(笑)。

 魚の気持ちになって作戦を練り、シナリオ通りに釣ったときの満足感は人を釣りの虜にします。「釣れた」のではなく「釣った」ことの喜び──。ハゼはそれを僕ら家族に教えてくれたような気がするのです。

 ……といっても、すべてがシナリオ通りにいくわけもなく、まったく釣れないときも往々にしてあるわけで、そのツレなさにまたソソられてしまうし、釣れなくても海に居るだけでも気分がいいのが釣りという趣味の良いところなんですよねぇ。家内に言わせれば「あなたのダメなところ」らしいけど…。


(『北方ジャーナル2016年7月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2016年

前回(第2回)記事はこちら。


『北方ジャーナル』2017年11月号に掲載されたエッセイの3回目です。


第3回

不幸は重なり続くもの

 乳がんであるかどうかの結果が出るまでの2週間。結果が出るまでになぜこれほど時間がかかるのか、と最初の数日は恨めしくなった。妻とは結局、どう話していいかわからずじまいで僕は「その話題」に触れるのが怖くて彼女を避けるようになっていた。

 実はこのとき、僕はまともな精神状態ではなかった。もちろん、妻のことで動揺していたけれどもそれだけじゃなかった。実はちょうどこの時期、僕の両親の離婚の協議が進められていたのである。

 僕の父は病気がちで仕事を早めにリタイア。母は代わりとなってよく働き、生活を支えていた。いつか家のローンを払い終え、自分も定年を迎えた後は父と一緒にゆっくりと孫たちの成長に目を細める老後を待ち望み、母はそれを心の支えに日々がんばってきたのだと思う。そんな老後が必ずやってくると信じて疑っていなかっただろう。しかし、母が忙しい日々を送っている隙に、父は若い愛人を作り家を出て行った。

「ごめんなさい…」と僕ら兄妹に泣いて謝ってばかりの母を慰めながら父のいない「家族会議」が何度も開かれていた。気性が激しく何かと問題の多かった父に一番懐いていたのは母似の僕だった。父に似て怒ってばかりの兄と妹を「まあまあ…」となだめつつも僕は実に複雑な心持ちだった。

 子供たちの成長を見届け、夫婦で老後を過ごす。僕もそんな未来を信じて疑っていなかったけれど、今は妻が乳がんかもしれないという事実が突きつけられ、そんな未来が崩れそうになっている。一方、父は母が健在であるにもかかわらず、それを裏切り捨てて別の老後を過ごそうとしているーー。

 許せない、という感情はもちろんあるのだけれども、自分の境遇とのあまりの違いに呆れ果て当時は怒る気力もなかった。そんなことよりも今考えなければいけないのは、母がこれから迎える現実の老後だと思っていた。慰謝料として父はどの程度を考えているのか? 実家の所有権は? リタイアした後の母を誰が面倒を看ていくのか?ーー。現在の貯蓄も含めて率直に兄妹で話し合いが続けられ、ある程度の結論と「離婚契約」の内容が決まった。僕ら兄妹はすでに独立して家庭を持ち、それまでは年に一度顔を合わす程度だった。変な話だが、父のおかげで父以外の僕らの絆は強まったように思うし、今では何かにつけてよく連絡を取り合うようになり、実家で母を囲んで会うようになった。そんなある日、妹が良いことを言っていた。

「家族というのは、ただ血が繋がっているから家族なんじゃない。家族であろうとしているから家族なんだと思う」

 僕は血縁というものは切っても切れないものだとそれまで信じ込んでいた。家族の誰かが世間に後ろ指を差されたり、たとえ犯罪者になったとしても最後の味方になってやれるのは家族しかいないと考えていた。しかし、今回の離婚の一件で考えが変わった。縁というものがその人の考え、心の持ちようだとしたらたとえ血縁者であろうとも、家族であろうとしない者、家族を裏切る者との縁は切ることができるはずだ。僕は父親との絶縁を決め、彼の葬儀にも出ないと決めた。それを孫である子供たちにも伝え、泣きながら話を聞く子供らに、

「もし、僕がお前たちを裏切るようなことがあったら、そのときは遠慮なく僕を父親と呼ぶのをやめて縁を切りなさい」とも話した。

夫婦で決めたこれから

 妻の検査結果がどうなるのかわからないし、なんと声をかけていいのかもわからない、さらに実家の離婚騒動でバタバタしている、しかも仕事は繁忙期…。7月上旬はそんな状態で過ごしていたが、ある日、疲れからか僕は母に妻が検査を受けていることを漏らしてしまった。

「それならちゃんと話し合いなさい。どう話していいかわからないなら、素直にそう言えばいいじゃない。夫婦なんてそういうところからボタンをかけちがうんだよ。私みたいに後悔するよ」と言われた。実際にボタンをかけちがってしまった人が言うことなのだから、その言葉は重かった。

 検査結果が出るまで2週間。当初はどうしてそんなに時間がかかるのだと思ったものだが、僕にはこれくらい時間がないと結果を受け入れる心の準備ができないんじゃないかと実感した。妻とちゃんと話そう。やっとそう思えたのは1週間以上経ってからだった。

 このとき、僕は乳がんについてあまり調べる気になれなかった。ただ、乳がんにもいろいろなタイプがあって、コントロールができるタイプとそうではないタチの悪いタイプがあることくらいはわかっていた。妻のほうはそれなりに調べているようだったが、どこまで頭に入っていたのかはわからない。他人事であれば熱心に調べ、対処法も考えるのだろうけど自分たちのこととなると、なかなかできることではないなと痛感した。

 2人で話し合ったのは、まだどうともいえない病気のことではなく、これからの方向性だ。もし、がんだった場合、4人の子供たちのためにとにかく少しでも長く生きることを優先すること。そのために一番確実性が高いと思われる方法を選ぶこと。つまり、部分切除よりも全摘術が良い場合は迷い無くすべての乳房を取ること。妻には僕も含めた家族のために病気と闘ってもらい、僕はそれを経済面で支えていく。そんなことを話したように思う。

「大丈夫。絶対、大丈夫だから」

 経済面で支える、というのは僕にとって一番の不安要素であったけれど、妻がもしがんであった場合、不安になったりストレスがかかるのが一番良くないだろうと、僕はとにかく「大丈夫」という言葉ばかり使っていた。

 後でわかったことだが、妻の腫瘍は11㎜の小さな部類のものだった。しかし、場所が悪かったのか痛みを訴えて伏せることが多くなっていた。精神的にもきつかったのかもしれない。息をするたびに痛みがあり、ときに息苦しくなるという。なぜ、こんな場所にできたんだろう、と妻は嘆いていたけれど、“こんな場所”だったからこそがん検診にもいかずに自分で気づくことができ、早期の段階で発見できたのだから、まさに不幸中の幸いといえるだろう。小さいわりに痛みの強い“できもの”に妻は苦しめられていたが、僕は今では運がよかったのかもしれないと面倒な“できもの”の発生場所に感謝さえしている。そもそも運がよければ乳がんになんてならなかったんだろうけども。


(『北方ジャーナル2017年11月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2017年

前回(vol.1)記事はこちらです。


北方ジャーナル』2016年6月号に掲載されたコラム『根掛かり人生 ~今日も地球を釣っています…~』の第2回です。


Vol.2

初めて釣った謎の魚
それは嫌われ者の謎の魚


範を示してこそ親…

 初めての釣りがほろ苦い思い出、いやむしろトラウマになりかねない結果となってしまった我が家の子供たち。初釣行の後、まったくと言っていいほど釣りのことは口にしなくなってしまった。しかし、このままでは終われない。道具一式揃えるのに1万円近くも投資して、その結果が地球を釣ったトラウマしかないなんて悲しすぎるじゃないか…。

 とはいえ、また闇雲に釣りに出掛けても「釣りというのはとっても辛く悲しい」という印象を強めるだけのような気もするし…。まずは親である僕がちょっとでも釣れるようになってから子供たちに教えてやろう、ということで一人で港へ行ってみることにした。

 釣り場は釣り初心者やファミリーに人気という小樽の色内埠頭。公園と一緒になった埠頭なのでトイレもあり、時期によって実にさまざまな魚が釣れる。ファミリー向けとはいえ、釣り方によっては玄人も満足できる小樽随一の良い釣り場だと僕は思っている。

 昨年の7月某日。その色内埠頭へ一人寂しく釣りに出掛けた。狙う魚は…わからない! ここの海にはどんな魚がいるのかわからないから狙いもわからないのは当然で、餌も何を選んでいいのか、ここでもやっぱりわからない。餌売り場で腕組みしつつ、手にとったのはチューブタイプになったオキアミの練り餌。その理由は「これは手が汚れないらしい」というだけなのであった…。

 仕掛けは前回の釣行ですべてダメになってしまったので、ここでも懲りずにもはや定番となった「サビキ釣りセット」を買ってみた。

ビギナーズラック…?

 埠頭に着いて周囲を見渡すと平日のお昼にも関わらずそこそこ釣り人がいて、その中の最も人が良さそうなオジサンに挨拶してみた。

「いやぁ〜、夏枯れなのかね? かんばしくないねぇ」

 魚が釣れなくて暇なのか、訊いてもいないことをどんどんしゃべるオジサン。どうやら定年退職後に何か趣味を持とうと釣りを始めてみたら、これが実に楽しいらしくほぼ毎日顔を出しているらしい。真夏は港にいると潮風が心地よく釣りには絶好の日和が多い。けれど水温が高くなりすぎた港には魚があまり入って来なくなるようでそれを「夏枯れ」というのだそうだ。それでもチカやカタクチイワシが寄ってくることもあるのでサビキ釣りに来ているのだという。

 よしよし、サビキ釣りの仕掛けで問題ないのだな、とわかったところで隅っこのほうで準備を始めた。右も左もわからない僕には周囲の人がみんな玄人に見えたので、あまり邪魔にならないようにひっそりと釣りというものを勉強したかったのだ。

 購入した「サビキセット」の説明書き通りに仕掛けをセットする。糸の結び方はいわゆる「漁師結び」。別名「完全結び」といわれる結び方でいかにも強そう。素人にもわりと簡単な結び方でかつ強力なので僕は今でも多用している。ネットで調べ、家で練習してきた漁師結びで仕掛けを作り、手が汚れない練り餌を餌カゴに注入。周囲の釣り人がやっているようにサビキ仕掛けを投げずに、岸壁から糸をポチャンと垂らすだけにしてみた。

 糸を垂らしてみたけれど、いったいどれくらいの深さにすればいいのだろうか。リールを慣れない手つきで操作して糸の長さを調節していると、ものの数十秒で感じたことのない感覚が…。

 プルンプルン……!

 ん? もしかして釣れてる? もしかしてこれがビギナーズラックってやつなの!? わけもわからぬまま、リールを巻くと、なんだかわからない魚が釣れている! そして実によく暴れている! どうしていいかわからずにいるうちに魚は暴れまくってあっという間にサビキの針と糸をぐちゃぐちゃに絡めて使い物にならぬようにしてしまった。ここでも僕の用意したサビキセットは1セット。僕の一人での初釣行、これにて終了である。

 しかし、今日はまだいい。魚が釣れている。なんだかよくわからない魚だけど、ネットで調べたら毒魚ではないらしいし、焼けば何でも食えるだろうと、帰宅してすぐに塩焼きにして食べてみた。

 ……んまいっ!!

 今まで食べてきた焼き魚はいったいなんだったのかというほどの臭みのない上品な香りと深い味わい…。この小さな一尾を4人の子供たちにもちょっとずつ食べさせたが、みんな目を丸くして驚いていた。

今でも謎の魚です

 7月某日。今度こそ、子供たちに魚を釣らせてやろうと色内埠頭へ。すると釣れるわ釣れるわ、僕と同じ魚が。僕も30㎝はありそうな大きなのも釣れて仕掛けはダメになってしまったし、家族分は釣れたのでその日も早めに引き上げて晩ご飯の食卓にみんなの釣果を並べた。一口食べて家族の笑顔が広がるはずであったが…。

 ……マズい! マズすぎる! おえぇぇぇ…。

 前回食べた魚と同じ種類なのに、あれはなんだったのかというほどの強烈な生臭さと、汚泥まみれの川を連想させるようなドロッとした味わい…。

 後に知ることになるのだが、僕らが初めて釣った魚はウグイ。産卵期に腹が赤くなるのでアカハラとも呼ばれる魚だ。釣り人の間でもこの魚の味の評価は分かれるようで、釣ったら美味しいから食べるという人もいれば、リリースもせずにその辺に打ち捨てる人も。サビキ仕掛けをダメにする魚としても嫌われている。

 せっかく釣った魚なのだから打ち捨てるのはあんまりだと思った僕はその後もウグイをなんとかして食べようと試みた。わかったことは15㎝に満たないくらいの小さなウグイは塩焼きにすると実に美味しい。でも、外れを引くと吐くほどマズい。刺身にすると大きくても美味しく食べられるが小骨が多くて大変。しかし釣ってすぐ暴れる前に締めてしまえば、小骨は肉に刺さらず刺身をラクに美味しく頂ける、らしい。

 いずれにせよ、食べるのはちょっと面倒なことが多いので、結局のところ僕はリリースするか、持ち帰って捌き、ウグイの切り身を餌にして今では他のおいしい魚を釣っている。これがまた良く釣れるし、経済的なのです。その辺のお話はまた今度。

(※小樽の色内埠頭は2018年6月現在、工事のため立ち入り禁止となっています)

(『北方ジャーナル2016年6月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2016年

前回(第1回)記事はこちら。

このエッセーのバックナンバーをこのブログに転載してから、

ありがたいことに「雑誌はどこで買えるの?」と問い合わせをいただきました。

アマゾンでも買えますし、北海道内ではセコマさんで取り扱っています。

今年6/15発売の『2018年7月号』で第11回、7/15発売の『2018年8月号』で最終回の予定です。

それまでのバックナンバーはこのブログで週に1回のペースで転載していこうかなと思います。


さて、それでは『北方ジャーナル』2017年10月号掲載の第2回目のエッセイです。




第2回

妻にどう声をかければよかったのか

 6月30日、札幌市にある麻生乳腺甲状腺クリニックの診察室。院長の亀田博先生は、書類と妻の乳房が映っているパソコンのディスプレイを交互に見ながら言った。

「五分五分ですね。組織を取って詳しく調べましょう」

 妻はすぐに処置室で組織を取るために針生検を受けることになり、僕は待合ロビーで待つことになった。

「五分五分。がんではないと、はっきり言えないということか。もし乳がんだとして、それはがんの中でも厄介なタイプだろうか、それとも治療していけるものだろうか。妻になんて声をかければいいんだろうか…」

 ロビーの椅子に腰掛けながらさまざまなことを考えていた。いや、考えようとしてもなかなか思考がまとまらなかった。がん検診に来たのは妻の胸にあるしこりが良性であることを確認して安心したかったからだ。悪性だと告げられる可能性はもちろんあったはずなのに、僕にはそれを受け入れる心の準備がまったくできていなかった。

 しばらくして看護師がやって来て妻の様子を教えてくれた。

「処置は終わっていてもう起き上がっても問題ない時間なんですが…。奥さん、まだちょっと辛いみたいなので横になってもらっています。もう少し待ってもらえますか?」

 自分が乳がんかもしれないと告げられた妻は今どんなことを考えているんだろう。動揺しているのかもしれないな。そんなことを思いながら看護師の話を僕は聞いていた。検査結果は2週間後。万が一乳がんであった場合は、その後の治療について話し合うことになるので夫の僕も一緒に診察に来てほしいということだった。

 2週間後の予約を入れて8千円ほどの会計を済ませているとフラフラと妻がやって来た。

「帰ろうか。あ、コンビニ行こうか。アイスもらえるよ」

 ちょうどこの日は携帯会社のイベントがやっている金曜日。コンビニに行って携帯画面のクーポンをかざせばアイスが無料でもらえるのだ。

「よく覚えてたね。行こっか」

 妻は意外そうな顔をした後、ちょっと笑っていた。僕もなんて声をかけていいかわからないままだったけど、自分の口からアイスをもらいに行こうなんて言葉が出てくるのが少しおかしかった。この日の札幌の最高気温は30℃。無料で手に入れたアイスはおいしく感じられるはずだった。けれど、まるで味がしなかった。

「3時間以上かかっちゃったね。ずっと禁煙できつかったわ。今の病院って敷地内全面禁煙が当たり前だからなぁ」

 コンビニの駐車場にある灰皿の前で、僕は乳がんの疑いありと告げられてショックを受けている妻に文句ばかり垂れていた。慰めたり励ましたりすべきだったのかもしれない。でも、がんのことに触れるのがこの時の僕にはとにかく怖かった。

 昼食が食べられないまま夕方になってしまったので、帰り道にスーパーに寄り惣菜を買って食べることにした。僕ら夫婦はほとんど外食することがない。経済的に余裕がないということもあるけれど、たまに夫婦だけで外食しても「子供たちにも食べさせてあげたいね」という話題にしかならなくて寂しい気持ちになるだけだからだ。スーパーの衣料品コーナーでは夏物衣料のバーゲンが始まっていた。こんなときでもないと子供4人分の服をまとめて買えない。子供たちの喜ぶ顔を想像して夫婦でしばし買い物を楽しむ一方で、僕は「もし近い将来、一人で子供たちの服を選ぶ日が来たら…。さぞつまらないだろうな」と、最悪の事態を想像していたりした。結局、妻とはがんのことに触れぬまま、僕はほとんど無言で車を走らせ帰宅した。

統計の数字が持つ意味

 その日の夕食で子供たちは遠慮なく質問してきた。

「病院、どうだった?」

 僕を見つめる8つの目にどこか不安の色が見てとれた。診察のことについて妻とはまったく話し合っていなかったけれど僕は子供たちに嘘はつけないと思い、正直にそして機械的に答えた。

「まだ詳しくはわからないって。もしかしたら乳がんかもしれないからこれから詳しい検査をして、あと2週間したらその結果を聞きにまた病院に行くよ」

 じっと耳を傾ける子供たちが“乳がん”という言葉に敏感に反応していたのが見て取れた。

「でも、大丈夫。万が一乳がんだったとしても乳がんというがんはね、助かるがんなの。他のがんよりも助かる見込みの多いがんだからお母さんは大丈夫」

 妻は黙って聞いていた。子供たちも黙っていた。僕も自分で口にしていながらその言葉の軽さを噛み締めていた。

 妻は統計的には乳がんと縁遠い人だ。家族歴がなく、飲酒喫煙もせず、4度も出産し、肥満もしていない。乳がんになりやすいというリスクからこれほど遠い人が乳がんになる確率は10%にも満たないかもしれない。それでも数少ない確率を引き当てて乳がんになったとしたらーー。たとえ90%の人が助かるという初期がんだったとして、残りの10%にならないと誰がいえるのか。

 がんになった人にとって統計というのはほとんど意味をなさないものではないか。どこまでいっても生きるか死ぬかの「五分五分」なのではないだろうか。

「ご飯が冷めちゃう。さ、食べよう」

 家族の沈黙に耐えられなくなって僕は自分の思考とまったく違うことをまた口走っていた。


(『北方ジャーナル2017年10月号』掲載)

※無断転載を禁じます。(C)Re Studio 2017年

北方ジャーナル』では釣りのコラム『根掛かり人生 ~今日も地球を釣っています…~』も書いてます。

そのバックナンバーの転載も編集長の許可を得たのでこのブログにアップします。

『僕の妻、乳がんになる』の記事ばかり上げると重くもなっちゃうので^^;


連載を始めたのは2016年5月号から。ですので、もう2年くらいになりますね。

前回ブログで「私的なことを書くのは抵抗があった」みたいなことを書きましたが、これも思い切り「私的なこと」ですね。でも、なんというか同じプライベートでも質が違うといいますか、このコラムは軽く笑って読んでもらいたいというか、北海道の釣り人口を考えたら釣りネタは避けちゃいけないんじゃないかなと編集長と話して、うちの雑誌なりの釣りコラムをと始めた次第です。


では、2016年5月号の第1回を。

vol.1

その後の釣りのすべてを 

物語る人生最初の釣り

何を揃えれば良いのやら… 

 「釣りがしたいっ!」  ある日のこと、虫や動物など生き物全般が好きな息子(10)が珍しくおねだりをしてきた。僕が釣りを始めたきっかけである。

  しかし、釣りって何が必要なんだ? どこで釣るんだ? とりあえずネットで「釣り 初心者」を検索。すると出てくるわ出てくるわ、「ビギナー入門講座」の数々が。イロイロ眺めてみるとビギナーには「サビキ釣り」というものがオススメらしい。そして、家族連れにはぜひ「磯釣り」をオススメしたい──。そんなことが書かれていた。

  今にして思うとまったくの初心者に磯釣りとはなんとハードな推薦だと笑っちゃうのだけれど、何もわからぬ僕は「釣り初心者はまず磯でサビキ釣り」とふたつのオススメを合体して解釈したのであった。

 そうと決まれば次は道具の購入。そういえば、近頃はホームセンターで釣具が売られていたなと思い出し、買い物ついでに物色してみると、安いものは想像以上にお安いっ! 

「万能竿」と書かれた小さな竿がリールとセットで2千円もしないで買えてしまう。子供が扱いやすそうな大きさだし安いしコレでいいべと娘(12)と息子の分を買い、僕は彼らよりちょっと高い投げ竿セット、お値段3千円を購入。仕掛けもこれさえあればサビキ釣りができるという「サビキセット」を1人1セットずつ買った。安物で揃えたとはいえ、家族3人でおよそ9千円の出費。ずいぶん高価な魚となりそうだ。大事に食わねば。いったい何が釣れるのだろう、むふふふ。まだ釣ってもいないのに出費分以上に期待だけは膨らむのであった。

  そして、忘れもしない2015年7月24日。他の釣り人に迷惑はかけたくないし、何もわからないのを見られると恥ずかしいからという理由で僕と娘、息子の3人は自宅近くの誰もいない浜へ出かけた。いよいよ初釣行なのである。ピッカピカの竿に仕掛けを取り付けて、エサカゴにエサを詰める。子供たちはまだ仕掛けをつけていない竿を使ってキャストの練習に余念がない。目線は上方斜め45度。変に力むことなく、竿のしなりを利用して投げるのがコツ。子供たちはさすが父ちゃん! みたいな顔をして僕のアドバイスを聴いていたが、ネットで書かれていたことをそのまんま話していただけなのである。僕はまだ一度も釣竿を振ったことがないのであった。

 初釣行……?

  釣りをやりたいと言い出したのは息子であった。そうだ、家族最初の一投はお前がやってみろ。息子の人生初キャストを娘と僕の2人で見守ることにした。前の晩から楽しみで眠れなかったという息子。今日も朝から竿を降って練習していた息子。今でも釣りを続けているがこのときほど真剣に投げた彼の姿を見たことがない。


 シュッ! 


「あ……」


 ポチャン…。


  一瞬の出来事であった。竿が振られたと思った瞬間、サビキ仕掛けだけがあらぬ方向に飛んでいき海に沈んだ。仕掛けと釣り糸がしっかり結べていなかったのだ。息子は手ごたえのないリールを巻き、その先に何も付いていない釣り糸を呆然と眺めていた。用意した仕掛けは1人1セット。息子の初釣行終了である。

  同じ轍は踏むまいと娘の仕掛けはグリグリに結んだ。結び方などわからないけれど、とにかく丈夫に結びまくった。振りかぶる娘。姉の底力を見せるときである。振りかぶったままの娘。…おい、どうした。

  サビキ仕掛けというのは疑似餌の針が5~10本付いた仕掛けのことで、エサカゴやオモリも付くのでそれなりに長さのある仕掛けだ。そして子供らに用意した竿は非常に短いものだった。娘が振りかぶったとき、磯の石に引っかかったのはごく自然な成り行きだった。釣りというのはつくづく面倒な趣味だな、と引っかかりを解こうとして竿を引くと…。


 ブチッ!


 「あ……」

  用意した仕掛けは1人1セット。娘の初釣行終了である。

  残るは父である僕一人??。ここは父の威厳を示さねばなるまい。結び目ヨーシ! 後方ヨーシ! と、わが子らの失敗を踏み台にしつつ力まないようにキャストしてみた。

  スルスルとまっすぐ前方15mほど飛んでいくサビキ仕掛け。

 「オオー!」

  子供たちが歓声を上げる。でも、ただ仕掛けを投げただけである。魚は釣れていない。というか、違うものが釣れている。

 「あ、なんか引っかかった」

  地球が釣れていた。いわゆる根掛かりである。これじゃあ魚は釣れないだろうと地球相手に真剣勝負を挑む。リールは目一杯巻いて竿を持つ手に力を入れる…。


 ブチッ!


 「あ……」


  用意した仕掛けは1人1セット。僕の初釣行終了である。しょっぱなから根掛かりで始まった釣り人生なのであった。僕ら家族の初釣行はものの10分で終わった。誰もいない浜に行くのに片道30分は歩いたのに。 

「磯って来てみると気持ちいいねぇ。いいお散歩になったよねぇ」 「おっ! カニだぁ! ねぇねぇ持って帰っていい? 来て良かったー!」

  磯釣りはたとえ釣れなくても子供にとっては自然がいっぱいで楽しいからオススメですよと、ネットでの名人様がおっしゃってた。たしかにその通りだけど、明らかに父親に気を遣って言ってるよな、お前ら。でも、わが子ながらイイヤツだな、お前ら。

  ちなみに、サビキ釣りというのは堤防などある程度水深のあるところでやるもので、一般的には仕掛けを投げたりしません。深さのあるところに垂らすのです。そこんところ、賢明な釣り初心者は読み逃さないように。決して水深2mにも満たない磯に投げてはいけません。海のゴミを増やすだけです。海、ゴメン。反省しています。

  こんなバカ釣り人である僕らが魚を釣れるようになるまでどんな紆余曲折があったのか。そんな成長過程や失敗談をこのコラムでは綴っていきたいと思っております。魚のように生温かく見守ってくれると幸いです。魚って触ってみると生温かいのよ、これが。 釣りを始めるまで魚は冷たいものだとばかり思ってたわ!


(『北方ジャーナル2016年5月号』掲載)

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